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「どうする家康」徳川家康が3人の天下人の中で、もっとも評価が低い深刻なワケ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
徳川家康。(提供:アフロ)

 大河ドラマ「どうする家康」の主人公・徳川家康は、3人の天下人の中でもっとも評価が低い。今回はその理由について、詳しく考えてみよう。

 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という3人の天下人のなかで、もっとも人気が低いのが家康である。信長、秀吉は苦労して天下取りの道のりを築いたが、家康は最後に「棚から牡丹餅」のようにかっさらっていた印象が強いからだろう。

 家康と戦争にまつわる逸話も、芳しいものがない。元亀3年(1573)12月、家康は織田信長とともに三方ヶ原で武田信玄と戦い、あえなく敗北。家康は逃亡の途中で、あまりの恐怖に脱糞したという逸話がある。これが、家康の評価を下げる要因となった。

 慶長19年(1614)にはじまった大坂の陣では、家康が真田信繁に苦しめられ、逃げ回ったエピソードが講談などで披露された。家康と戦争の逸話は、史実に基づかないものもあり、おもしろおかしく伝わっているものが多い。では、実際はどうだったのか。

 家康の軍事的な才覚の淵源は、駿府における今川氏の人質時代に求められる。当時、今川義元のもとには、「軍師」として名高い太原雪斎が存在した。雪斎は、今川氏の政治顧問的な立場として貢献していた。まだ幼かった家康は、雪斎から学問の手ほどきを受けたといわれている。

 もっとも重要なことは、先に家康の醜態を披露したが、実は武芸に通じていたことは、よく知られた事実である。家康は剣術はもちろんのこと、馬術にも優れていた。のちに剣豪として名高い柳生宗矩を召し抱え、秀忠の指南役を命じたほどである。

 そして、自身は武芸を磨くため、鷹狩を頻繁に行った。家康の名誉のためにいうと、先に触れた三方ヶ原の戦いでは、武田の兵を弓矢で射殺したと伝わっている(『信長公記』)。脱糞した話はウソである。

 家康を支えたのは、強い結束で知られる「三河武士」だった。彼らは家康が今川氏の人質になっても耐え忍び、いざ戦いになると、命を投げ出しても惜しくないという屈強揃いであった。

 また、家康は版図の拡大に伴い、積極的に外部の武将を家臣に組み入れた。天正10年(1582)に滅亡した武田氏の遺臣は代表的であり、最強と言われた「赤備え(軍装を赤色で統一した部隊)」は、井伊直政に預けられた。

 このように考えると、家康に関する合戦にまつわる後世の逸話は、デタラメな話が多く信用できない。その軍才というのは、改めて評価されるべきだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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