もういっそ、歴史教科書はマンガにしてしまったらどうだろう
11月16日、現代ビジネスに「「坂本龍馬が教科書から消える」には、大誤報が潜んでいる」と題する記事が掲載された。
すでに知られているように、歴史教科書から坂本龍馬の名前が消えるようだ。また、吉田松陰や武田信玄といった偉人も、削除の対象となっている。
しかし記事によれば、どうやら日本史で覚えることは年々増えている。ある日本史教科書は、30年間で67ページも増えているようだし、30年前の山川の『日本史用語集』の用語数は約6400の用語が収録されていたのに対し、現在は約10700にまで増えているようである。すごい増え方だ。
河合氏のいうように、歴史教育で大切なのは、用語や人名を無機質に暗記することではなく、歴史の流れや因果関係を理解させることだ。そういったプロセスを経て、世の中の変遷のなかで自らのいまがあることを自覚し、これからのふるまい方を考えることに、歴史教育の意味がある。
それでは、単語数は減らしたほうがよいのか。この点において、筆者は逆の考えをもっている。単語数は、あるいは知識量は、もっと増やしたほうがよい。なぜか。もっと学びたい子供のためである。筆者もそうだったのだが、ド田舎に住んでいる子供や貧しい家庭の子供は、塾に通うことができない。そのため教育格差が生まれ、後になって相当な努力をしなければ、思い描いた人生を歩むことができなくなる。そうであるから、むしろ教科書の内容は充実していてほしい。学ぼうと思えば知識を手にすることができるようにしておいてほしいのだ。教科書は分厚くなければいけない。
問題は、知識量が多いかどうかではない。歴史教科書が面白くないことだ。先生の話は好きだから聞くこともできるが、授業時間には限りがある。改善すべきは、歴史教科書の中身のほうにあるように思われる。
歴史教科書をマンガにしよう!
われわれは、ドラゴンボールやワンピースを自分から読もうと思って読むし、暗記をしようと思わなくても勝手にストーリーや人名、技の名前を憶える。誰もが知っているように、ベジータの技の名前は、ギャリック砲、ビッグバンアタック、ファイナルフラッシュだ。パワーボールと星の酸素を混ぜ合わせることで、限られたサイヤ人だけが人工的に1700万ゼノを超える小さな満月を作り出すことができる。好きだから、暗記している。
さらによいのは、漫画を読むと、登場人物やストーリーについて友達らと話す。ヒーローはかっこよくて、彼らのやっていることは未来を切り開いている。そんな人に自分もなりたいと思い、ヒーローについて語り、そして真似をする。人は本性において、よき姿を目指すものだ。
事実はマンガよりも奇なり。よくよく調べてみると、歴史のストーリーは、どこぞのマンガよりも面白い。だから、のめりこむ。勝手に人物を覚えるし、いつどんなことが起こったのかもまた覚えていく。歴史は勝手に学ぶものであって、誰かに強制されるものではない。
歴史をマンガで学ぶのは無理ではない。工藤かずや・池上遼一の『信長』には、多くの武将が出てくるし、その全体の中で信長の生涯を見事に描いている。読後感が半端ないから、ネットなどでそれぞれの武将のエピソードを調べてみたりもする。本学特別招聘教授の津田栄さんは戦国時代が好きだから、講義の終わったあとの夜は、酒を飲みながら武将について語ったりもする(今日も学生らと一緒に語り合う)。筆者は生まれが山梨なので、やはり武田信玄が好きである。甲陽軍鑑、最高!
ところで、ダメな歴史マンガのパターンがある。それは、一冊の中に室町とか近代といった時代ごとのテーマで区切って話を構成し、吹き出しや空きスペースのなかには単語を羅列しているものだ。結局そのマンガがやっていることは挿絵の入った教科書であり、知識の詰め込みである。少ないページの中にあれもこれも入れようとすることに無理があるのだ。それでは時代の趨勢が伝わってこない。
ジャンプなどのプロの漫画家が書いていないこともまた問題だ。歴史教科書は、池上遼一とか鳥山明のような、勢いの表現できる漫画家に書いてもらおう。筆者は『ジョジョ』の荒木飛呂彦に書いてほしい。「さすが秀吉!おれたちにできない事を平然とやってのけるッ そこにシビれる!あこがれるゥ!」マンガにおいて、セリフは重要である。
ふざけているようだが、結構まじめにいっている。筆者は大学で経営学などの講義をしているが、アンパンマンとかマッチ売りの少女、桃太郎などを取り上げて語ったほうが、学生らは興味を持つし、よく知識を習得する。単なる知識の詰め込みではなく、それらを学生が主体的に学ぶようになることが、よい教育だと筆者は思う。
新しい歴史教育
歴史は面白いのだ。だから、用語の数がどうこうではなく、その面白さを表現できれば、学びにつながる。当記事ではマンガにしてしまおうと述べたが、小説でもよいと思う。ようは楽しく、面白く、そしてためになることを学ぶことができればよいのである。
しかもこの学習方法では、本を読む習慣が身につく。例えば小学校ではマンガを読み、中学校以降では小説にするなどしたら、楽しく読書の習慣が身につくだろう。マンガでシーンの移り変わりを会得したのち小説に移行することで、頭の中で躍動した絵を想像することができるようになる。様々な語彙や言い回しにも反応できるようになりそうである。
子供らは学校に大量の本を持ってくることができないという反論がありそうだ。そうなのである。だから、タブレット端末が学校現場に必要なのである。子供らは自宅や休み時間などに楽しくマンガや小説を読む。わからないことや、より興味がありそうなことがあれば、自分で調べる。授業中は先生の話を聞きながら、自分でグーグル検索をして、より深い知識を得るのである。先生が調べることを促してもよい。面白い知識を得たならば、子供たちは授業で発言をするようになるだろう。主体的な学び=アクティブ・ラーニングが実現する。
先生の役割はどうなるか。子供らはマンガや小説で歴史を学んできているから、学校では先生が裏話や豆知識を教えてやるとよい。そうすれば子供らはもっと楽しく歴史を学ぶし、習熟度も上がるだろう。すなわち先生の役割は、知識を教えるのではなく、知識を勝手に学ぶモチベーションを育むための働きかけを行うのである。
「勉強しないで遊びほうける学生生活のススメ」のなかで、子供は好きなことをやっているときに伸びるというデータを挙げた。勉強を勉強と思い、教科書を教科書と思っているうちは、いくら用語を少なくしても、子供は教科書を読みたいとは思わない。子供たちの成長のためにも、教科書を面白くすることから始めるべきだと、筆者は思う。