【光る君へ】「まひろ」と藤原宣孝とは、いかにして結ばれたのか
大河ドラマ「光る君へ」では、藤原宣孝がたびたび登場したが、これまで「まひろ」との浮いた話はなかった。しかし、今回になって、ようやくそのような話が出た。2人はいかにして結ばれたのか、考えることにしよう(以下、「まひろ」は紫式部、式部と表記する)。
宣孝は為輔の子だが、生年は不詳である。宣孝は、藤原為時(「まひろ」の父)の遠縁だった。宣孝の公家としての官職は、決して高くはなかったものの、備後国、周防国、山城国、筑前国の受領などを歴任した。為時はなかなか職に恵まれなかったのだから、大違いである。
宣孝は、すでに藤原顕猷の娘、平季明の娘、藤原朝成の娘と結婚していた。正室以外に側室まで迎えており、その間には隆光、頼宣、儀明、隆佐、明懐らの子をもうけていたのである。
宣孝は歌舞や和歌に優れており、賀茂祭の舞人に選出されたり、臨時祭の神楽の人長を務めていたことが判明する。また、宣孝は日記をつけていた模様で、その逸文が『西宮記』、『祈雨記』などに散見する。逸文とは日記自体は残っていないが、その文章の一部が諸書に引用されたものである。
宣孝が式部に求婚したのは、筑前守の任期が満了を迎え、帰洛した長徳元年(995)以後のことで、式部が父の為時とともに任地の越前に赴いた翌年秋頃の範囲と考えられている。その間、宣孝は式部と結婚したいと考え、自身の気持ちを頻繁に伝えていたのだろう。
式部が宣孝と結婚したのは、長徳4年(998)から翌年にかけての時期であると推測されている。2人とも生年は不詳であるが、その年齢差は約20歳はあったという。
当時、宣孝は40歳代、紫式部は20歳代だったと推測されている(年齢は諸説あり)。平安時代の女性は、早くて15歳前後には結婚していたのだから、式部は晩婚だったといえるかもしれない。
当時、宣孝の子の隆光は26歳、隆佐は17歳になっていた。とはいえ、複数の妻を持った場合は、子供の年齢が高いことは十分に考えられたので、さほど式部は気にしなかったかもしれない。
宣孝は上級クラスの公家ではなかったが、さまざまな職を歴任しており、生活は安定していたのだろう。むろん、当時は自由恋愛など考えられないから、父の為時が式部の将来を案じ、結婚相手として宣孝を強く勧めた可能性があったかもしれない。