薄れゆく「昭和」の記憶。九州野球の聖地・平和台の今とその主、ホークスとライオンズの奇妙な縁
昨年末、福岡県のある遊園地が閉鎖されることがニュースに流れた。「テーマパーク」が幅を利かせるようになり「遊園地」じたいが「昭和の遺物」となった昨今、県外の人々にはなじみのない遊園地の閉鎖のことなど年の瀬の慌ただしい中、衆目を集めることはなかった。ただ、その遊園地の閉鎖の陰で、ある「遺跡」の保存活動が行われていることが気になった。
遊園地の名は、「かしいかえん」。福岡市東区にあるという。この辺りはかつて香椎の浜と呼ばれ、地元鉄道会社がレジャー施設として開発したようだ。その際に野球場も建設したらしく、その球場のスタンドの土台がいまだ残っているのだ。遊園地の閉鎖にともない、この球場の「遺跡」を何とか残そうと、現地NPO法人・西鉄ライオンズ研究会が現状を調査したというのがニュース記事の概要だった。
日本では近年ようやく明治以降の近代遺産に歴史的価値を見出す風潮が出てきたが、その長い国の歴史からいまだに残すべき歴史遺産といえば、近代以前のものというイメージがある。国家としての歴史の浅いアメリカでは、100年もあればそれは「残すべき遺産」であり、ナショナルパスタイムである野球のスタジアムもその例外ではない。1912年開場のボストンのフェンウェイパーク、1914年開場のシカゴのリグレーフィールドは「国定歴史建造物」に指定されている。また、すでに取り壊された球場の跡地にも、それを示すモニュメントが設置されるなど、スタジアムは忘じがたき記憶として何らかのかたちで残されることが多い。それに対し、「世界最古の木造建築物」である法隆寺など古代からの史跡にこと欠かない日本では、近代になってから出現したスタジアムに歴史的価値を見出すにはいまだ至っていないように思う。
九州最初のプロ野球チーム、「西鉄軍」
九州と言えば、今や「ホークス・アイランド」と言っても過言ではない。昨年は優勝を逃したものの、2000年代に入ってからの人気と実力は日本球界トップクラスと言っていいだろう。春の宮崎キャンプでは、「球界の盟主」・巨人に匹敵するほどのファンを集め、本拠・PayPayドームにはオープン戦の段階から3万人を超える観客がスタンドにつめかける。
そのソフトバンク・ホークスだが、実は前身のダイエー時代を含めて考えても、九州、そして福岡の4つ目のプロ野球チームなのである。
昭和時代を知る年配の野球ファンには、福岡の球団と言えば、西鉄ライオンズが頭に浮かぶだろうが、実はこれは「2代目」の西鉄球団である。初代西鉄球団は、戦前の1リーグ時代に存在していた。
現在のNPBに連なるプロ野球リーグ、日本職業野球連盟が発足したのは、1936(昭和11)年のことである。このとき、原加盟球団のひとつとして発足したのが、東京セネタースである。このチームはその後紆余曲折を経て1943(昭和18)年に九州へ本拠を移し、西鉄軍と名を改める。これは、オーナーを務めていた旧久留米藩主の末裔でもある貴族議院議員・有馬頼寧が球団経営に行き詰まり、藩政時代の家来筋に当たるブリヂストンの創始者・石橋正二郎、白木屋社長・鏡山忠男に援助を仰ぐことになり、さらには福岡県を中心に路線網をもっていた西日本鉄道が経営に参画することになったためである。
この初代西鉄軍の本拠は、西日本鉄道沿線にある春日原球場だった。しかし、ここではチームの顔見世興行のオープン戦は行われたものの、公式戦は他球団の集まる関西、東京で行われ、実施されることはなかった。結局、西鉄軍は日中戦争が泥沼化する中、この年限りで解散。太平洋戦争の敗戦を経て、終戦後、西鉄は日本職業野球連盟に復帰を願い出るも、「解散」を理由に却下されてしまう。西鉄球団の「復活」は、2リーグ分裂の1950(昭和25)年まで待たねばならなかった。
ちなみにこの春日原球場では、戦後の1948(昭和23)年になって初めてプロ野球の公式戦が開催されている。この時の中日ドラゴンズとともに福岡の野球ファンの前に姿を現したのは、現在のソフトバンクの前身にあたる南海ホークスだった。また、この球場は、1950年に2代目西鉄球団と同時に発足した西日本パイレーツの第二本拠としても使用された。
福岡プロ野球発祥の地・香椎球場
九州でプロ野球の公式戦が最初に行われたのは、春日原球場のそれに先んじること2年前、プロ野球復活の1946(昭和21)年8月のことである。当時九州を本拠とする球団はなかったため、阪急、中日、金星、近畿の4チームが巡業してきたのである。ちなみにこの時の近畿グレートリングというチームは、戦時下の国による鉄道会社統合により南海と近鉄が合併したために南海軍が改称したもので、その後両社の再分割によって「南海ホークス」が誕生した。
熊本水前寺球場で初日を迎えると、一行は翌17日に福岡入りするのだが、記念すべき福岡県内で初めてのプロ野球公式戦が行われたのが、冒頭に登場した香椎球場である。
1939(昭和14)年完成のこの球場も西日本鉄道沿線にあり、戦後は日本職業野球連盟「復帰」が認められなかった西鉄の実業団チームがホームグラウンドにしていた。
九州ならびに福岡に本格的にプロ球団が誕生するのは、1950(昭和25)年と言っていいだろう。セ・パの2リーグにプロ野球が分裂したこの年、福岡には西日本パイレーツと西鉄クリッパーズの2球団が誕生する。パイレーツはセ・リーグ、クリッパーズはパ・リーグに加盟したが、共倒れに終わり、翌年には両球団は合併の上、パ・リーグを選択、西鉄ライオンズとして再出発することになる。そして香椎球場はライオンズの二軍の本拠として、「野武士軍団」を育てた。
九州プロ野球のメッカ、平和台球場と「野武士軍団」西鉄ライオンズの栄光
パイレーツ、クリッパーズが当初からホームグラウンドとしたのが、平和台球場である。開場は前年1949(昭和24)年の12月。スポーツによる戦後復興を掲げた国民体育大会の第3回大会の行われた福岡城三の丸跡にあった球技場跡に建設され、「戦前は陸軍連隊のあったこの地を平和の丘に」との願いからその名がつけられた。竣工後早速、パイレーツ、クリッパーズ両球団の発足に先駆けて、年の瀬前の寒風吹きすさぶ中、巨人対阪神による杮落しのオープン戦が行われている。両球団の合併後は、当然のごとく西鉄ライオンズのホーム球場となった。
1950年代前半は南海ホークスの黄金時代。これに敢然と挑んだのが「野武士軍団」・ライオンズだった。ライオンズ初年度の1951(昭和26)年は南海に大差をつけられての2位。その後も、両チームは毎年のようにパ・リーグの覇権争いを演じるが、1954(昭和29)年に初めてペナントレースを制した西鉄は、1956年からリーグ3連覇。その間、1957年の4勝負けなし、1958年の3連敗後の4連勝と、ファンの記憶に残る勝ち方で球界の盟主・巨人相手の日本シリーズを3年連続で制し、黄金時代を現出した。ライオンズは、商人の町・博多と炭鉱と製鉄で栄えた筑豊地方を抱え発展してきた福岡のシンボルとしてファンの心に根付いていった。
しかし、高度経済成長の中、エネルギーが石炭から石油へシフトしていくにつれ、福岡の活気は失われてゆく。それと並行するかのように、ライオンズもかつての輝きを失ってゆく。西鉄ライオンズ最後のリーグ優勝は1963(昭和38)年。日本シリーズは、かつて寄せつけることのなかった巨人に敗れ去っている。いつの間にか、平和台のスタンドには閑古鳥が鳴くようになり、1970年代に入り3年連続で最下位に沈むと、西日本鉄道は球団経営に白旗を挙げてしまう。
それでも、九州からプロ野球の灯を消すまいと、親会社をもたない福岡野球株式会社による球団運営がその後6年続く。運営費をスポンサーのネーミングライツで賄うべく、球団名は太平洋クラブ、クラウンライターと数年おきに変わったが、それも続くことはなく、1978(昭和53)年シーズン限りをもってライオンズは福岡を去ることになった。ライオンズを引き受けたのは、奇しくも初代西鉄軍の前身球団、東京セネタースのスポンサーだった西武グループだった。新たな主は、ライオンズを埼玉に移し、そこでチームを常勝軍団に仕立て上げた。身売り球団の常ではあるが、新オーナーは、前身球団の色を消しにかかる。その後半生に負のイメージのこびりついた福岡時代を、西武は徹底的に消しにかかり、自ら九州に巡業することは最初のうちだけで、次第になくなっていった。逆にホーム球場での不入りに悩んでいたライバル球団が、ライオンズを連れて行けば儲かるとばかりに、平和台で試合を組むようになった。かつて野武士軍団が暴れまわっていた平和台球場は、ビジターユニフォームを身にまとったライオンズが戻ってきた時だけ、つかの間の賑わいを見せた。
まさかのホークス来福と平和台球場の歴史の終焉
ライオンズが去った後、博多の町に再びプロ球団を取り戻そうという動きは止むことはなかった。実際、西鉄黄金時代のスーパーエース、稲尾和久を監督に迎えたロッテ・オリオンズが博多移転を計画していたのは、現在では誰もが知るところとなっている。
そして10年の空白の後、平和台にプロ野球チームが帰ってきた。しかし、皮肉なことにやって来たのは、稲尾が去ったロッテではなく、かつてパ・リーグの覇権争いでしのぎを削ってきたホークスだった。南海電鉄から球団を買い取った流通大手のダイエーは、本拠地を福岡に移転することを発表。そのままチームの指揮を執り続けることになった稲尾のライバルだった杉浦忠は、旧本拠・大阪球場で最終戦でファンに向けてポツリと言った。
「行って参ります」。
「他所者」の来訪に、福岡のファンはとまどった。平和台は再び賑わいを取り戻したが、旧主・ライオンズ戦ではスタンドは、ライオンズのチームカラーであるブルーに染まった。それでも、2年目には満員のスタンドはホークスファンとライオンズファンで二分されるようになり、いつの間にかホークスファン一色に染まるようになった。福岡ダイエーホークスが平和台球場を本拠と使用したのはたった4シーズン。ライオンズからホークスへの「福岡の主」の禅譲が完了すると、ホークスは、1993(平成5)年からは自らが建設した開閉式ドーム球場、福岡ドーム(現PayPayドーム)に本拠を移した。
再び主を失った平和台球場は、その後もアマチュアやダイエーのファームが使用したが、1997(平成9)年限りで閉鎖となった。
平和台球場跡地は、現在広場となっている。スタンドは撤去されたが、残された土台部分がかつてそこにスタジアムがあったことを今に伝えている。ここには、戦前は軍の駐屯地があり、近世には城、そして古代には外交使節を受け入れる鴻臚館があったことがわかっている。つまりは、平和台の地は、有史以来、この地の中心的存在であったのだ。今後は、埋蔵文化財を保存、維持すべく歴史公園として整備されていく予定である。その中に、スポーツの聖地であった平和台球場の歴史も含まれてしかるべきであろう。
球場跡には、モニュメントの類はないものの、福岡城跡の堀端、球場跡地の入り口には有志によって建立されたスタンドの立体模型をあしらった立派な記念碑がある。思えば、ホークスが福岡に来て33年。すでにクリッパーズ時代を含めたライオンズの福岡時代の28年を超えている。平和台球場がなくなって四半世紀、来年にはホークスのドーム移転30周年を迎える。現在PayPayドームに詰めかけているファンの中にどれだけこの球場の存在を知っている人がいるのだろうか。平和台球場の記憶は人々の記憶から消えつつある。
それでもこのお堀端のモニュメントがある限り、この地に、かつて野球場があり、豊かな暮らしを夢見てがむしゃらに生きてきた人々に希望を与えたライオンズというチームが存在していた記憶は福岡市民の間に紡ぎ続けられていくことだろう。
(写真は筆者撮影)