英国EU離脱、移民流入への国民の恐怖が引き金となった(上)
英国の欧州連合(EU)残留を主張した労働党のジョー・コックス下院議員(41)が離脱支持者に殺害されるという悲惨な事件が起こるなか、国論を二分したEU離脱・残留の是非を問う国民投票(有権者数約4650万人)が6月23日に実施され、英国のEU離脱が決まったが、今回の国民投票では離脱支持陣営はEUを離脱して主権を取り戻し移民の流入を阻止すべきと主張する一方で、残留支持陣営は離脱による人口5億人のEU単一市場への自由なアクセスを捨てれば英ポンドは急落、株価暴落といった金融市場の混乱と英国経済がリセッション(景気失速)に陥る経済的リスクが高まると主張して有権者に二者択一を迫るものだった。
だが、投票結果は離脱支持の得票率51.9%、残留支持は48.1%と、その差はわずか3.8%という僅差だったことは、いかに有権者が移民流入の急増による弊害を重視するか、それとも経済や金融市場の安定を重視するかで苦渋の選択を迫られたかを物語っている。一部報道では、デービッド・キャメロン前首相((7月13日に辞任))も6月28日にブリュッセルで開かれた最後のEU首脳会議に臨んだ際に、「離脱支持派が勝利した原動力は移民問題だった。EU各国の首脳が英国にEUからの移民流入に緊急ブレーキをかける権限を与えてくれていれば残留支持派が勝利していた」と嘆いていたという。
欧州ではシェンゲン協定とEUの機能に関する条約によって労働者含む人の移動の自由に関する権利が保障されている。これは、経済があまり豊かでない加盟国の労働者は経済がより豊かな英国などへの加盟国への流入増を加速化させ、治安の悪化や社会福祉支出の増大などさまざまな社会問題を引き起こすリスクを高めることを意味する。折しも国民投票当日の6月23日に英国立統計局(ONS)はショッキングな人口統計を発表した。それによると、英国の2015年半ばまでの1年間の人口増加数は純増ベースで51万3000人だったが、そのうち、実に65%に相当する33万5600人が他のEU加盟国からの移民で、残りの17万1800人は自然増だった。この発表がまだ残留か離脱かの態度を決めかねていた有権者の心理を離脱の方向に傾けた可能性は否定できない。
これに関し、英国のシンクタンク「ポピュレーション・マターズ(人口問題)」のサイモン・ロス所長は6月23日付の自社サイトで、「過去最高に近い移民の増加とそれによる死亡率を上回る生誕率の上昇で英国の人口増加のペースが加速している。ロンドンと英国南東部の人口密度は欧州で最も高い。こうした人口急増で住宅不足や交通渋滞、学校や医療施設へのアクセス、さらには人口急増による住宅地開発で緑地面積が減少し、生態系の多様性が脅威にさらされ、二酸化炭素の排出量の増加などの問題を起こす。今こそ英国の将来の人口増加を食い止める必要がある」と警告している。
具体的な移民政策なければ国民の不満爆発
一方、EUからの英国への移民流入はすでにピークに達したとの分析もある。英国立経済社会研究所(NIESR)のディレクター、ジョナサン・ポーターズ氏は、国民投票前の6月19日のブログで、「EUからの英国への移民流入は離脱決定前から英国の景気鈍化、その一方で一部のユーロ圏の景気回復を受けて出国する移民が増えており、ネットベースで移民流入はすでにピークに達した可能性がある。今後は離脱で景気がさらに悪化すればむしろ出国者数が増える」と指摘する。
しかし、それでも、同氏は政府の対応について、「離脱が完了するまでには少なくとも2年かかるので、その間に政府が具体的な移民政策を決める検討委員会を設置せず、移民が公共サービスに悪影響を及ぼす恐れがあるという地方自治体の懸念を緩和しなければ、景気悪化による緊縮予算の長期化も手伝って、たとえ移民が国の財政収入に貢献しているといっても、移民流入の度合いが高い地域では移民が学校や医療などの公共サービス需要を膨らませていると思い込んで国民の怒りが爆発するリスクが高まる。万能薬ではないが、もう一度10年に廃止された移民影響対策基金(MIF)を導入し、NHS(国民保険サービス)や学校、地方自治体への資金支援をする準備する必要がある」と提言している。
離脱支持派、トルコ系移民急増の恐怖を利用
離脱支持派は国民投票を有利に闘うため、移民急増の“恐怖”を利用し有権者を扇動した。その典型例がトルコのEU加盟問題だ。離脱支持派は将来、トルコのEU加盟が決まれば人口7600万人のトルコから大量の移民が英国に押し寄せるという恐怖心を有権者の心理に植え付けた。実際、英世論調査会社TNSが6月14日に実施したオンライン調査では回答者の58%が「トルコは今後10年以内にEUに加盟すると信じている」と回答し、否定した37%を大幅に上回り、多くの有権者が危機感を感じていたことが分かる。
トルコ問題をめぐっては、残留を旗頭に掲げて投票キャンペーンに奔走したキャメロン英首相は6月12日の英BBC放送のインタビュー番組で、「多くの離脱支持のキャンペーン指導者たち自身もトルコのEU加盟が今後数年以内に起こるという主張は有権者の注意を惹くための方便だということを認めている。トルコのEU加盟の見通しはこの先数十年間はない。実際に起こらないことで国民を脅かすことはやめるべきだ」と反論している。
だが、離脱支持派はひるむどころか、かえってトルコのEU加盟の見通しを強め、キャメロン政権の閣僚であるものの、首相とは反対に離脱支持を唱えるプリティ・パテル労相も6月13日付の英紙ザ・タイムズで、トルコがEUに加盟すれば毎年、今よりも10万人も多くのトルコ人が英国に査証なしで入国し治安の脅威となる、と警告しキャメロン首相のトルコのEU加盟を支持する方針を批判している。
英紙フィナンシャル・タイムズのフィリップ・ステファンズ記者は6月8日付電子版で、離脱支持派のトルコ嫌いについて、米国の不動産王の異名を持ち過激発言で世間を騒がしている共和党の次期大統領候補ドナルド・トランプ氏に例えた。「離脱支持派のキャンペーン用宣材を見ると、トルコがEUに加盟すれば欧州の国境は戦争地域のシリアにまで広がり、数百万人ものイスラム教徒のトルコ人で英国は溢れかえる。その大半は凶悪犯か社会福祉を当てにする人々だ、と根も葉もない主張を展開している」とし、「米国ではトランプ氏がすべてのイスラム教徒は(テロの)容疑者として扱われなければならないと主張しているが、英国では(離脱キャンペーンを指揮した)ボリス・ジョンソン議員(前ロンドン市長)とマイケル・ゴーブ議員(前司法相)がすべてのトルコ人を敵役に選んだ」と分析する。
ソロス氏、EUの難民対策の遅れも英国EU離脱を促したと批判
一方、英国の移民問題については、ヘッジファンドのソロス・ファンド・マネジメントを率いる著名な投資家、ジョージ・ソロス氏も著名エコノミストらが寄稿するプロジェクト・シンジケートの6月25日付電子版で、英国のEU離脱を決めた理由について、「その答えは投票日までの数カ月間に実施された世論調査の中にある。欧州の移民流入危機とEU離脱が一緒くたにされたことだ」とし、移民流入問題が有権者に離脱の道を選択させたと見ている。
その上で、同氏は、「離脱支持派は戦争難民を利用して、数千人もの英国への亡命希望者が(英仏海峡に近いフランスの港湾都市)カレーにある難民キャンプ((通称「ジャングル」)の恐ろしいイメージを有権者に植え付け、他のEU加盟国から何の規制もなく入ってくる移民の恐怖を煽りたてた。EU自体も英国の国民投票に悪影響が及ばないようもっと早く難民対策を打つべきだったが、対応が遅れたために、カレーなどのような難民キャンプでの混乱状況を長引かせたことも恐怖を煽った」と分析する。
英国への移民の流入を食い止めるため、フランスはカレーでの英国による国境管理を特別に認めてきたが、皮肉なことに今回のEU離脱決定で英国はカレーから撤退させられる可能性が出てきた。次期フランス大統領選の最有力候補アラン・ジュペ氏が7月4日に、大統領就任後に英国とのル・トゥケ協定を破棄する、と述べたからだ。英国はこの協定によってカレーでの国境管理が許されている。今後、英国はカレーから海を渡った対岸の自国領ドーバーで、まさに水際の不法移民の流入を阻止しなければならなくなり移民が急増する恐れがある。
さらに、ソロス氏は6月30日の欧州議会の合同委員会で英国のEU離脱に関連して、「(地域紛争や貧困に苦しむ中東やアフリカからの)欧州への大量の難民流入危機が今日の英国EU離脱を引き起こした」とした上で、欧州難民危機を解決するため、「EUは2015~2020年の難民の受け入れとその後の社会統合(定住)プロジェクトに最大2000億ユーロ(約23.4兆円)を支出する計画とは別に、毎年、少なくとも300億ユーロ(約3.5兆円)を投じて、国境警備や亡命関連の行政組織を整備し、公正な亡命手続きと難民の地域社会との統合の機会が実現できるようにすべき。また、中東やアフリカでも難民受け入れ国への支援や雇用創出が必要だ」と証言している。
また、同氏は、「英国に離脱に対し制裁を加えるべきでなく、EUが真剣に改革に取り組み始めれば、今後数か月後には英国は離脱による最悪の結末に触れて、再びEU加盟へのキャンペーンが起こる」と主張する。英国は景気悪化に直面して離脱を後悔するのでEUは英国を制裁する必要がないとも受け取れるが、少なくともEUは英国離脱までの2年間の移行期間に、欧州の悲惨な難民危機を解決しない限り離脱の根底に潜む英国民の移民流入の恐怖は消えない。
EU離脱で英国居住の300万人の移民の処遇はどうなるか
国民投票の結果はEU離脱となったわけだが、今後、英国の移民規制が強まれば経済への打撃が予想される。米経済専門オンラインメディア、CNNマネーのイバナ・コッタソーバとマーク・トンプソンの両記者は6月9日付電子版で、「現在、英国に住んでいる他のEU加盟国からの移民は約300万人だが、EU離脱が決まればどういう扱いを受けるのかという問題が生じる。離脱支持派はこれまで通り住み続けられるが、新しい移民には査証が必要になる可能性がある」としているが、これはあくまでも推測の域を出ない。一方、「他のEU加盟国には約120万人の英国人が住んでいるが、こちらも離脱で自由に人が移動する権利を行使できなくなれば打撃を受ける可能性がある」と予想している。
この問題については、英国はEUとの離脱協議で「人の移動の自由」を逆手にとって交渉材料に使う可能性が高い。フィリップ・ハモンド外相は7月4日、BBC放送のトーク番組で、「英国に住んでいるEU市民が今まで通りに英国に居られると英国が一方的に約束することはばかげている。EUからも同じ約束がなければならない。EUとの間で人や労働者の移動の自由、留学や居住の自由を含む包括的な協議が始まらなければ、英国に居るEU市民と他のEU加盟国に居る英国市民が“すべてOKだよ”と言われることはない」と語っている。
また、フィナンシャル・タイムズ(FT紙)も6月9日付の社説で、「離脱が決まれば、英国は輸出の半分を占め、人口5億人のEU単一市場へのアクセスをこれまで通り維持するためには、ノルウェーやスイスのようにEU非加盟国でもEUとの自由貿易を実現させるため、EUが規定する人の自由な移動の権利を受け入れざるをえなくなる」と指摘する。さらに、「活力のある経済というのは外国で働きたいという才能のある人々を進んで受け入れることで利益を享受する条件をすべて整えているものだ。移民の増加に対応できるように住宅投資を十分に行い、必要なインフラを整備するだけのことだ」と説く。
FT紙の社説の主張も分からないわけではないが、次期首相の最有力候補だったボリス・ジョンソン議員(その後党首選不出馬、メイ新政権で外相に就任)の経済顧問ジェラルド・リヨンズ氏は、英紙サンデー・テレグラフの6月26日付紙面で、「EU離脱後の英国はノルウェーのようにEU非加盟国がEUとEEA(欧州経済領域)協定を結びEU単一市場にアクセスする方法ではなく、また、カナダやスウェーデンのような(包括的経済・貿易協定(CETA)に基づく)貿易関係でもない、英国独自の自由貿易関係の構築を目指す。英国は今後、グローバルな英国か、それとも孤立した内向的なEUのどちらかを選ぶかという問題に迫られる」と強気な発言をしているように、英国が今後のEUとの離脱協議ではEUからの厳しい要求には応じず、他方、EUも英国に続いて他の加盟国も離脱しないよう見せしめとして英国をEU市場から締め出そうとすれば、英国も制裁で対抗し貿易戦争に発展する可能性もある。 (次回の「下」に続く)