サンジェルマンデプレの新潟 ーKinase (きなせ)ー
パリ、サンジェルマンデプレ界隈といえば、「フロール」、「ドゥマゴ」など、サルトルやボーヴォワールなどインテリやアーティスト達が集った由緒あるカフェ、あるいは有名ブランドが点在するおしゃれな通りなど、この街を旅された方ならそんなイメージが湧くだろう。パリの中でもひときわ人気のこの地区に、今年7月、新潟の名産品を集めたブティックが誕生した。冒頭の有名カフェから歩いてすぐの小道にある店の名はKinase(きなせ)。新潟の方言「いらっしゃい」をフランス語のアクサン記号(eの上に右上がりのスラッシュ、アクサンテギュ付き)を交えて表している。
ガラス張りの間口を縁取る黒色は蔵の壁を思わせるようでもあり、越後上布や小千谷縮を連想させる麻の暖簾もすっきりと、ほどよい意外性を保ちつつ風景に溶け込んでいる。扉を開くと、藍染のエプロン姿の日本女性に迎えられる。お相手をしてくれたのは、店長の伊藤洋子さん。穏やかな笑顔に心が和む。まず目に入ってくるのは、左の壁にずらりと並んだ日本酒。新潟各地から選りすぐった蔵元からのお酒が45銘柄ほどあるという。さらに奥へ進むと、お米、お鍋、フライパン、包丁、そして酒器などが白木の棚にところを得ている。
私が訪ねたのはヴァカンスシーズン真っ只中で、周囲は軒並み長期休暇で扉を閉めている店ばかり。一年でいちばん静かな時期だったが、7月11日の初日は、予想以上の人出だったと伊藤さんは振り返る。前日にあった招待客限定のオープニングパーティーの画像がブロガーなどを介してSNSに流れたり、7月恒例のパリのイベント「ジャパンエキスポ」の余波が手伝ったこともあり、遠方からかけつけた日本びいきもいたという。
そんな幸運な滑り出しからひと月ほど、手応えは上々だ。
「何と言っても日本酒がいちばん売れています。日本酒はパリでブームになりつつあるので、日本食のレストランなどですでに飲んでいらっしゃる方は多いのですが、本当に美味しい日本酒を飲んだことのある人は少ない。だから試飲をすると皆さん『こんな美味しいものがあるのか』と驚きます」
お客様にはだいたい3種類、タイプの違う日本酒を試飲してもらう。
「いろいろな味を体験してもらうには3本くらいは必要です。例えば、フランスの白ワインに近いもの、かなりフルーティで味もまろやかなもの、切れ味、のどごしが良いものというふうに。ワインの場合、のどごしというのはあまり話題にならず想像ができませんので、とにかく飲んでいただくのが一番です」
結果、日本酒の美味しさに開眼する人がほとんどで、試飲した人の90パーセント、日によっては100パーセントが購入に結びつくという。
「接客には時間をかけます。試飲すると皆さん最短でも30分はいらっしゃる。その間に、“ジャパニーズサケ”ではなく、新潟の風土を説明します。日本のどのあたりに位置していて、雪深い地方なので信濃川の清流があり、お米が美味しい。だからその水とお米から出来るお酒も美味しいというふうに。結局、そうした話はワインを語る時の風土(テロワール)と同じで、フランス人はとても興味を持つのです」
と、伊藤さん。まだ見ぬ新潟という地への想像を膨らませつつ、おそらく旅をしているような気分で味わう日本酒はまた格別のものがあるだろう。また、伊藤さんはあまり堅苦しく説明しないように、とも心がけている。
「日本人のソムリエさんが日本酒を語るとき、香りを“畳”と形容していらっしゃったりしますが、それは日本人には通用しても、外国人にはわかりません。こちらで試飲されたお客様は、アニスとかフヌイユ(フェンネル)という言葉を使って印象を伝えようとします。これは私たち日本人には馴染みのない例えですが、逆に今後おすすめするときの表現の参考になります」
たしかに、文化的背景が違えばアプローチにも工夫が要る。謙虚に対話を重ねることがスキルを高めることにつながっているようだ。
ところで、私はこの店を新潟県のアンテナショップだと思っていたのだが、そうではなかった。聞けば、新潟の経済産業開発機構の助力を得ながら、「グラムスリー」というPR会社が立ち上げたものなのだそうだ。こちらの代表の坂本明さんが、個人的にご縁のあった新潟の日本酒や食材の素晴らしさを広く世に出せないかと考えたことがきっかけで、個々に蔵元さんや工芸を紹介するよりも、新潟という括りでまとめた方がビジネスとして成功するという構想が形になったもの。坂本さんはフランス留学の経験もあるそうで、その関係でパリにということもあるだろうが、ヨーロッパの食と文化の中心であるパリでまず成功することを足がかりに、ゆくゆくはグローバルな展開も視野に入れている。
その第一歩として、日本関係の店が集中しているオペラ座界隈をあえて選ばず、サンジェルマンデプレ地区に出店したのも面白い。
このあたりには似たような店がほとんどないのでまずは新鮮に映る。さらに界隈には富裕層が多く、「ボンマルシェ」に象徴される高級食材店が成功している背景がある。
「気にいれば値段を聞かずに『これください』という方は多いです」
お客さんの年齢層は幅広く、男女比でいえば男性が優勢だが、カップルの場合、女性の方が気に入れば必ず販売に結びつくという伊藤さんの分析も興味深い。
そもそも、新しい試みの店長に抜擢された彼女がすでに、フランスの銀製品の老舗「クリストフル」で長年経験を積んだ接客のプロという強みもある。
「『クリストフル』にいた時も、製品の良さだけでなく、職人さんの技術、歴史的背景など、付加価値を伝えることが大事でした。さらにここでは、日本のおもてなしをすることを心がけています。入って挨拶もしてくれないようなフランスの店とは違って、『いらっしゃいませ』と迎える。『おもてなし』という言葉は、『クリストフル』でも言われていたように、すでにこちらのホテルや有名ブランドなどラグジュアリーな業種では一つの規範になっています。名刺の渡し方などの教育があったりするほどですから」
なるほど、良きモノがあり、フランス人が真似したいほどのおもてなしを受ければ、手ぶらでは帰らない。
ちなみに、私自身、この取材を通して日本酒の美味しさ、上質なもてなしの心地よさを再認識した一人。麻の暖簾をくぐる時、手には2本の酒瓶を携えていた。
ヴァカンス明けには、これまでのラインナップに加えて食料品がさらに充実する予定とか。フランス人だけでなく、在住の日本人にとっても頼もしいアドレスになりそうだ。