北欧で先住民は未だに抑圧されている サーミとイヌイットの尊厳を取り戻せ
「先住民」を主題とした映画の公開が北欧で相次いでいる。デンマーク・グリーンランド・カナダ合作の『Twice Colonized』(2023)はイヌイットの基本的な人権を求めて闘う活動家のドキュメンタリー映画だ。
アーユ・ピーター(Aaju Peter)はグリーンランドで遊牧民のイヌイット一家で育った弁護士・活動家だ。幼い頃にグリーンランドの家族から引き離されデンマークに送られ、言葉も文化的帰属も失った。成人後はカナダの北極圏に移り住み、イヌイットの植民地化を経験した。映画タイトルにもあるように「二度、植民地化された」自らの体験に基づき、孫や未来の世代のためにより良い世界を作りたいと彼女は活動している。
植民地主義的な構造は今も先住民の暮らしやメンタルヘルスに影響を与えており、彼女の息子も突然命を絶った。自ら命を絶つ若者が絶えない背景には抑圧されてきた歴史がある。苦しみの連鎖が孫の世代で減るように、アーユ・ピーターは先住民の権利と可視性のために闘うことに人生を捧げている。本作では先住民のための常設のEUフォーラムを作ろうと奮闘する姿を見ることになる。これは先住民の権利を取り戻そうと闘いながら、白人社会と同化されたことによって傷ついたピーター自身の傷を癒す旅でもあるのだ。
エッラ・マリエ・ヘッタ・イサクセン(Ella Marie Haetta Isaksen)は環境保護とサーミの権利のための闘いにおけるノルウェーでは有名な女性だ。筆者は彼女を「ノルウェーのグレタ」と讃えたいほど、今革命を起こしている。
サーミ人はノルウェー、スウェーデン、フィンランド、ロシアの先住民族だ。ノルウェーでは「劣った民族」として再教育が必要だとされ、1800年代の同化政策により、子どもは親から引き離され、寄宿学校で強制的にノルウェー語を勉強させられた。サーミ語を話すことを禁じられ、サーミ人であることは「恥」であると教えられ、アイデンティティを奪った抑圧政策。その影響ともたらされた低い自己肯定感は、現代のサーミ人にも受け継がれている。低い身長などの「外見差別」も受け、カラフルな民族衣装を着ていると冷たい眼差しを浴びせられ続けた。
ノルウェーのドキュメンタリー映画『RAHCAN - Ellas oppror』(2022)では、フィンマルクのレッパルフィヨルドでの鉱山投棄に反対するサーミ人と地元の環境団体の活動を追っている。音楽、愛、連帯がどこまで人や自然を救えるかという物語でもある。
自国の抑圧の歴史を反省する動き
ノルウェーの映画祭Oslo Pixには「北欧映画」「ドキュメンタリー」などの複数のカテゴリーがあり、両作品とも「先住民族」というカテゴリーに振り分けられている。そもそも、日本では映画祭などで「先住民族」や自国の歴史の反省にフォーカスすることがあるだろうか。
グリーン・コロニアリズム という現代の植民地支配
両作品にはいくつもの共通点がある。サーミ人はトナカイ放牧やサーモン漁業を生活の糧としてきたが、ノルウェー政府によるトナカイの放牧数の規制、養殖サーモンの発展で生態系が変わり、野生サーモンが減少するなど、サーミの従来の仕事の場は失われつつある。石油・ガス採掘の国から再生可能エネルギーの国に移行したい政府の意向に対して、風力発電の促進による風車の増加はトナカイ放牧を難しくさせている。
再生可能エネルギーなどの活動によって、すでに社会から疎外されている先住民のようなコミュニティが犠牲になる「グリーン・コロニアリズム」は大きな問題となっている。
イヌイットの経済は、毛皮の取引で長い間支えられてきた。しかし欧州による規制とアザラシの殺害が残酷だとする環境活動家たちの反対により、漁師の歴史とコミュニティの維持ができなくなっている。欧州と環境活動家の規制と反対運動が、いかにイヌイットの生きる手段を奪っているかをアーユ・ピーターが国際社会で訴え続ける姿が本作では描かれている。
「あなたたちは私たちの土地もアイデンティティも可能な限り全てを奪ってきた。身勝手な理由の押し付けで、収入源や土地をさらに奪おうというのか。いい加減にして」という怒りが両作品からは伝わってくる。
親子の時間と言葉を奪うという残酷な「おせっかい」
両方の先住民に対して、ノルウェーやデンマークがしてきたことは「劣った民族のあなたたちを教育してあげる」というおせっかいと傲慢さの押し付けだ。かつて親と子どもを引き離し、白人の言葉を無理やり教え、母国語を奪った歴史は、今の世代のアイデンティティにも大きな影響を与えている。
「言葉を奪われることはアイデンティティを失う」ことだとエッラ・マリエ・ヘッタ・イサクセンは言い続けており、彼女のバンドISAKでもサーミ語で歌っている。
アーユ・ピーターもデンマーク語を話すことを嫌がり、英語に切り替える場面が映画には登場する。デンマーク語を話すことで自らを失っているようなアイデンティティ・クライシスに陥っていた。
北欧の福祉制度の網から抜け落ちる先住民
北欧社会はかつて親から子どもを引き離して子どもを再教育した。先住民として背負う抑圧のルーツ、恥として教えられた血筋、社会に見つけられない自分の居場所。北欧では福祉制度が豊かと言われているが、先住民の言葉や悩みを理解する医療従事者やカウンセラーは少ない。そのため先住民は現地の人と同じようには福祉制度を利用できておらず、若い世代ではメンタルヘルスの悪化で特に男性の自殺が絶えない。アーユ・ピーターのように子どもの死を嘆く親は今もおり、抑圧の歴史は今も親と子を引き離しているのだ。
北欧で先住民が受けてきた抑圧の歴史、そして今も続いている抑圧の遺産を知れば知るほど、人間と言うのはいかに残酷で身勝手なのかを再認識させられる。過去の反省から対話で歩み寄ろうとする現代社会と、同時に経済発展や動物愛護の観点でぶつかる両者の主張。
共存の道を今も悩みながら探っているが、失われつつあるコミュニティで生き延びようと必死に悲鳴をあげる先住民の姿を見ていると、人類はいったい何をやっているのだと、困惑と悲しみを筆者は感じるのだ。
Text: Asaki Abumi