開業30年目のダービー初制覇 伯楽・藤沢調教師が貫いた“馬優先主義”
◆あえてダービーに挑戦しなかった理由
毎年5月の最終日曜日に行なわれる日本ダービー。今年は28日に行なわれた。
レース当日、舞台となる東京府中市の東京競馬場は快晴で26度の気温。天候にも恵まれ、11万人以上のファンが駆けつけた。
今年で第84回を数える日本ダービー。出走資格があるのは3歳馬のみ。つまり2014年に生まれた7015頭のサラブレッドの頂点を決めるレースなのだが、当日の競馬場でスタートラインに立てるのは僅か18頭。競走馬に携わる人なら誰もが憧れ、目指すのがこのダービーなのである。
そんなビッグレースを今年、制したのはクリストフ・ルメール騎手が乗るレイデオロという馬だった。管理するのは茨城県にある美浦トレーニングセンターで厩舎を開業する藤沢和雄調教師(65歳)。
藤沢師は年間のリーディング(最多勝利)調教師になること実に14回。フランスでG1レースを優勝するなど、世界が認める日本の名調教師。ダービーの一週前には3歳牝馬のビッグレースであるオークスを優勝し、JRA史上僅か2人目という重賞通算100勝を達成したばかり。しかし、過去に日本ダービーを制したことはなく、競馬ファンの間では“競馬界の七不思議”とさえ言われていた。
これほどの名調教師がダービーを勝っていないのにはもちろん理由があった。
調教師となって2年目の89年。藤沢師はいきなりダービーに管理馬のロンドンボーイを送り込んでいる。
「いきなりダービートレーナーになれてしまうのでは……」
当時はそんな思いも頭を過ぎったと言う。
しかし、結果は22着に惨敗。やっとの思いでゴールに辿り着いたロンドンボーイをみて、次のように思ったと語る。
「ダービーは確かに誰もが勝ちたいと願うレース。でも、人間のエゴで馬に無理をさせてはいけない」
3歳の春の時点でダービーの舞台となる東京競馬場の2400メートルをこなすには、それなりに完成した馬でないと無理と判断。この後は「耐えられる馬」「勝ち負けになる馬」と判断できない限り、無理には使わないと心に誓ったのだ。
◆貫き通した我慢の美学
それからは我慢の連続だった。物理的な出走資格をとっても師の判断一つで出走はさせない期間が長く続いた。その間、実に12年。舞台は誰もが憧れ注目する日本ダービーである。使えるものなら使いたいと思うであろうところだが、我慢我慢の美学を貫き通した。
もっとも藤沢師はサラッと当時を振り返り、言う。
「走れる馬がいなかったよね。ただそれだけだよ」
藤沢が馬を大事に使う姿勢には昔から定評があった。競走馬は通常2歳、遅くても3歳ではデビューするが、藤沢は「競走に耐えうる体がまだできていない」と判断すれば、無理に走らせることはなく、4歳になるまでデビューを待つこともあった。“東京競馬場の2400メートルに耐えられないならダービーには使わない”という姿勢と同じである。
そんな中、例えばレディブロンドという馬は、03年、実に5歳になってからデビュー。既に何度も競走経験のある馬を相手に、デビューから5連勝を飾らせるという離れ業をやってみせた。
◆再び幕を明けたダービー挑戦
話をダービーに戻そう。
89年にダービーに出たロンドンボーイから13年。02年についに藤沢はゴーサインを出した。これならダービーに出しても耐えられると判断したシンボリクリスエスやマチカネアカツキらを出走させると、結果、勝てはしなかったものの、前者が2着、後者も3着と善戦してみせた。
更に翌03年にもゼンノロブロイで挑戦。前年に続き2着と好走させた。
「これならそのうちダービーも勝てるのでは……」
当時、藤沢はそう思ったと言う。
しかし、3歳の頂点決定戦は伯楽をしても想像以上に厳しいものだった。10年に2番人気に推されたペルーサなど、13年までに18頭で挑戦したが、先頭でゴールを駆け抜けた馬は皆無。ここ3年はまた出走させることすらままならなかった。
そんな中、今年、送り込んだのがレイデオロだった。同馬は2歳だった昨年、デビューから3連勝をした。周囲は「この馬で来年こそはダービーを!!」と色めきだったが、その後、若駒特有の管骨の骨膜炎を発症。今春の予定に狂いが生じた。そして今年初戦となった皐月賞は5着に敗れ、初めての敗戦を喫した。
今年も藤沢先生はダービーを勝てないのか……。
そんな声が囁かれたのもこの頃だ。
◆ダービー制覇のエピソード
ところが、巷間の噂話など馬耳東風、淡々とダービーへ向け、藤沢は爪を研いだ。
デビュー以来、同馬の手綱をとるルメールは、京都に住み、滋賀県にある栗東トレーニングセンターで調教に乗っている騎手だ。しかし、ダービーの前、2週連続で藤沢は同騎手を美浦へ呼び寄せた。そして、レイデオロに騎乗させ、状態やクセを改めて把握させた。
競馬ではその効果がてき面に表れた。
前半の1000メートルの通過ラップは63秒2。G1レースとしては異常に遅い流れ。流れが遅ければ遅いほど前へ行った馬が有利になるのは当然で、スタート後、後方にいたレイデオロには正直、苦しいペースになったかと思われた。
しかし、ルメールは自らレイデオロを動かした。外をマクって一気に進出。レースの半分も終わっていない時点で2番手まで上がってみせた。
馬によってはこのまま一気に突っ走ってしまうかもしれないし、そうでなくても脚を使ったことで後半は疲れて走れなくなるケースもある。しかし、競馬だけでなく、調教でも何度も騎乗していたことで、ルメールはレイデオロの特徴を掴んでいた。だからこそできた芸当だったのだ。
結果、先行策に切り替えたルメール=レイデオロは早目先頭から後続の追撃を抑え込み、栄えあるダービーのゴールに最も早く飛び込んだのである。
「最後まで声は出なかったけど、心の中で『我慢しろ!我慢しろ!』とは呟いていたよね」
ダービートレーナーとなったゴール前の心境を語った藤沢は、心なしか目を潤ませて、次のように続けた。
「喜んでくれる人が大勢いて良かったけど、これまでたくさん迷惑をかけてきたから1つ勝ったくらいでは許してもらえないかな……」
ちなみにこのレイデオロ、母のラドラーダも藤沢が管理した馬であり、その父と母は先述したシンボリクリスエスとレディブロンドという血統。いずれも藤沢が大事に育てた馬達が、ダービートレーナーという称号をプレゼントしてくれたのかもしれない。
(文中敬称略・撮影=筆者)