愛する人達のために、考え方を変えて乗る中堅騎手の、障害レースに対する想いとは?
デビュー当初から障害が好き
1月14日、小倉競馬場で行われた障害未勝利戦。パーカッション(せん5歳、美浦・田中博康厩舎)に騎乗して今年初勝利を挙げたのが草野太郎だ。
「母の兄が乗馬クラブを経営していたので、そこで初めて馬に乗りました」
小学5年生になると、両親の勧めもあり、美浦トレセンの乗馬苑で乗るようになった。「何度も落とされたが、辞めようとは思わなかった」(本人)。
しかし、「野球をやりたかったし、競馬は全く見ていなかったので、騎手になろうという考えはありませんでした」と言う。
ところが環境は思考を変える。美浦の乗馬苑なので、関係者の子供が多かった事もあり、徐々に競馬を見るようになった。
「何故か障害レースの方が印象に残っていて、ゴーカイのファンだったし、横山義行(引退)さんや西谷誠さんに、憧れました」
こうして中学卒業時には競馬学校を受験。合格した。
「中学の卒業文集には『大障害とダービーを勝ちたい』と書きました。“太く短く”で良いと考えていたので、怪我のリスクの高い障害も歓迎でした」
美浦・坂本勝美調教師(引退)の下、2007年3月に騎手デビュー。その月のうちに障害レースにも騎乗した。
「坂本先生の馬でした。先生は僕が学校生の頃からトレセンで障害を飛ばさせてくれました。ただ、障害2戦目で落馬に巻き込まれると『減量があるうちに怪我をすると勿体ないから、しばらくは平地に専念しよう』と提案してくださり、障害戦には乗らなくなりました」
もっとも、その間も「いずれまた障害に乗りたい」という気持ちは失せなかった。結果、2年後の09年から、本格的に障害戦に参戦するようになった。
「西谷さんに憧れて、鐙を短くしていたので、ちょっと躓いただけでも落馬していました。高田(潤)さんからは『落ちたら0になるぞ』と言われ、イケイケだけではダメだと試行錯誤しました」
重賞初制覇も悔しい思い
チャンスが巡って来たのはデビュー7年目の13年6月。前任者が関西へ行くタイミングで乗るようになったアポロマーベリックで、東京ジャンプS(J・GⅢ)を勝利。自身初の重賞制覇を飾ると、プライベートでも直後の8月に結婚。幸せの絶頂期かと思えた。
しかし、その時すでに、魔の手がこっそりと忍び寄っていた。同年、秋、中山大障害(J・GⅠ)を目指すアポロマーベリックと共に臨んだ秋陽ジャンプSでは単勝2.0倍の1番人気に支持されたが……。
「落馬をしたため乗り替わりとなり、大障害はテレビ観戦になりました」
すると、他の騎手を乗せたアポロマーベリックは2着に8馬身もの差をつけて圧勝。その後もペガサスジャンプS、中山グランドジャンプ(J・GⅠ)と連勝し、一気に飛躍。2度と草野の手には戻らなかった。
「当時はまだ24歳で、ただ悔しいだけでした。中山大障害の映像は未だに見返せません」
更に翌14年の事だった。新潟の障害未勝利戦で1番人気に推されたドリームピースと共に軽快に先行。最終コーナーを2~3番手で回り、直線へ向いてからの最終障害での事だった。着地時に馬自身が前転をするように転んで落馬。放り出された草野は、馬場に叩きつけられた。
「最初は首を捻ったと思いました。ところが起き上がる事すら出来ず、診断の結果、第一、第二頸椎がバラバラになっている事が判明しました」
緊急手術後はハローベストで頭を固定。寝返りも打てない状態がしばらく続いた。
「急いで新潟まで駆けつけてくれた妻が僕に見えないところで泣いていたそうで、それを聞いた時はさすがに心が折れそうになりました」
復活して再び重賞制覇
ただ、幸いな事に気持ちは折れずに持ち堪えた。結果、約半年の休養とリハビリを挟み、騎手・草野太郎の時計が再び動き出すと、7年後の20年には、ラヴアンドポップでアポロマーベリック同様、東京ジャンプS(J・GⅢ)を優勝。昨秋にはエコロデュエル(牡5歳、美浦・岩戸孝樹厩舎)を駆って京都ジャンプS(J・GⅢ)を勝利。自身3度目の重賞制覇を記録してみせた。
「エコロデュエルは難しい馬で、京都でスクーリングをした時も三段跳びを怖がって、降りられなくなってしまいました。本番はどうか?と心配したけど、いざ競馬へ行ったらモノ凄い脚で突っ込んでくれて、結果、勝てました。ガッツポーズをしちゃいけない馬だと分かっているけど、嬉しくて思わず出ちゃったら案の定フラフラして、西谷さんに叱られました」
同馬の難しさが分かる逸話は他にもあった。続く中山大障害(J・GⅠ)のスクーリングの際は、他の馬に突っ込んで行こうとしたという。
「スイッチが入るとそんな危うさがあって大変なんです。でも、レースではバンケットや距離など、初モノづくしにもかかわらず良い走りをしてくれました。縦長であまり歓迎した流れではなかったし、行きたいところで何度も狭くなり、上手に誘導してあげられなかったのに、最後まで頑張って走り、離されたといえ3着になってくれました。まだ若いので、これからが楽しみです」
変わらない事と、変わった事
そんな草野だが、デビュー18年目を迎え「考えの変わらないところ」と「変わったところ」があるという。
「勝ちたいレースが大障害というのは今でも変わりません。現状を考えるとダービーは難しいので、大障害制覇は何としても叶えたいです」
また「変わったところ」を語るにあたり、支えてくれる周囲の人達の事を話し出した。
「現在、競馬学校の教官をされている坂本先生が師匠でなければ、障害を飛んでいなかったかもしれません。たまたま先生が見に来られているタイミングで勝てた事があったのですが、先生に恥をかかせないためにも、リーディングを獲れるくらい勝って、そういうシーンをまた演出出来るようにしたいです」
更に現在、宮田敬介厩舎で調教厩務員を務める弟に関しても、言う。
「以前、シゲルサツマイモに乗って阪神競馬場で勝った時(19年)、当時、藤沢(和雄)厩舎にいた弟も、その日は偶然、阪神にいました。立場は違うけど、応援してくれる両親のためにも、兄弟で切磋琢磨してやっていきたいです」
そして、何より精神的支柱になっている家族について、次のように語る。
「僕が落馬した時に、妻が泣いていたのも見た事があります。昨年の中山大障害は妻と子供と両親も競馬場で応援してくれていました。翌日は阪神で騎乗していたのですが、それが終わり、家に帰ると妻が『無事に終わって良かったです』と言ったのを聞き、改めて心配をかけてしまっていると痛感しました。乗っている本人よりも気疲れしているのだと思います」
ひと息、置いた後、続ける。
「初めて子供が出来た後、新潟で勝てたのですが、その時は子供も一緒に口取り写真に入れていただけました。家族には心配をかけ通しで申し訳ないけど、今後も、少しでもそういった写真が撮れるように頑張ります」
そして、次のように締めた。
「以前は“太く短く”で構わないと考えていた騎手人生ですが、家族のためにもなるべく怪我をせず、少しでも長く乗れるようにしたい。最近はそういう思いが強くなってきました」
間もなくに迫った1月20日の土曜日が35回目の誕生日。バースデー勝利を目指す草野の騎手人生は、まだまだこれから長く続く事だろう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)