ルポ「ヨルダン川西岸」(第二部「南ヘブロン」)・3
【教育への妨害】
トゥワニ村は人口330人ほど、南ヘブロン地区に点在する30のパレスチナ人の村の中で最大の村である。電気も水道もあるこの村には、この地域で唯一、公立の小学、中学、高校がある。2016年10月現在で、122人の生徒たちが学んでいた。
その学校の教師、アーイド・アルジョンディは、学校の存在意義をこう語った。
「学校の重要性はとても一言では言い尽くせません。自分たちの土地で住民が安定して暮らしていく上で、この学校はとても大きな役割を果たしています」
「本校は1956年に設立されましたが、1967年のイスラエル占領後、学校は閉鎖されました。すると、ほとんどの住民はこの地を離れました。しかしこの学校の再開で、住民は子どもたちの教育の機会について心配しなくてよくなりました。それは住民にとって、自分たちの土地に留まり暮らすための大きな助けになります。この学校にはそれほどの重要な役割があるのです」
「学校のないところには誰も住みません。だからこそイスラエル当局は学校の解体を何度も警告してきたのです。イスラエル当局はこの地域に学校が存在することを望んでいませんし、学校が“占領”にとって障害であることを当局が熟知しているからです」
イスラエル当局による学校への妨害活動は当時も続いていた。
校長のモハマド・アブハラウェはその一例を挙げた。
「イスラエル兵たちは常に幹線道路の60号線に検問所を設置しています。教師たちはその検問で取り調べられたり、脅されたりして授業に間に合わないこともあります。特にひどかったのは去年(2015年)のことで、イスラエル軍のジープが村の入口で通行を禁止したのです。私たち教師を学校に行かせないようにしているのです。こんなふうに学校の運営、授業の時間割が兵士の気分に左右されてしまうのです」
学校や生徒たちへの妨害はイスラエル軍だけではない。近くのユダヤ人入植者たちも重大な障害となっている。
トゥワニ村から3キロほど東にあるトゥーバ村の西の村はずれにアブ・サーミ(ハーフィズ・フレイネ/南ヘブロン地区のリーダー)が私を導き、2つの丘の間に遠く見えるトゥワニ村へ向かう小道を指差した。
「これが元々の通学路です。トゥワニ村の学校まで歩いて約20分ほどです。しかし2001年にユダヤ人入植者がこの道を遮断しました」
アブ・サーミによれば、1998年、丘の上にユダヤ人入植者の前哨基地「ハバット・マオン」が建設された直後から、入植者たちがこの道を通る通行人を襲撃し始めたという。そのため、生徒たちはこの道を通れず、回り道をしなければならなくなった。これまで20分ほどだった通学路は2、3時間ほどもかかるようになった。
2004年9月に国際NGOのスタッフたちが生徒たちを護衛して、元の通学路を通ることになった。しかし2日目に、外国人スタッフたちと生徒たちを「ハバット・マオン」の入植者たちが鉄製の鎖で襲った。この襲撃で外国人NGOスタッフは複数の骨折の重傷を負った。国際的な非難を恐れたイスラエル当局は、国会(クネセト)「子どもの権利」委員会の特別聴取会を開き、通学する生徒たちをイスラエル軍に護衛させることを決定した。
「あれ以来、今もイスラエル軍は子供たちを護衛しています。しかし、それでも時々入植者は子供たちを攻撃します。時には兵士さえ攻撃します」とアブ・サーミは言った。
2016年10月、下校する生徒たちを追った。トゥワニ村からトゥーバ村へ帰る4人の小学生と2人の中学生女子をイタリアのNGO「オペレーション・ドーブ(ハト作戦)」の女性スタッフ2人が護衛のため同行した。「マロン入植地」と前哨基地「ハバット・マオン」のある二つの丘の間を通る道の入口に来ると、そこで待機するイスラエル軍のジープが歩く生徒たちの後ろからぴったりとついて行く。「イスラエル軍がユダヤ人入植者たちからパレスチナ人の子どもたちを守るために護衛する」――実に奇妙で皮肉な光景である。
先の教師、アーイド・アルジョンディは言う。
「入植者は、素手や棒、または石など様々な手段で攻撃します。投石でも、パチンコなど様々な方法があります。ナイフで襲撃されることもあります。生徒の集団が保護者の一人と歩いていた時に襲撃を受け、一人がナイフで負傷しました。これらを証拠づける写真も多数あります」
「兵士たちは車で随行しますが、生徒たちは徒歩です。兵士はわざとペースを速くして子供たちを怒鳴るんです。また時には、灼けるような太陽の下で子供たちを何時間も立たせ、検査をしたりするのです。完全武装をした兵士のそんな行動は、目撃する子供たちの心理状態に非常に大きな影響を及ぼします」
「朝の登校の時に嫌がらせを受けた生徒は、授業で教室に座っていてもその日はずっと、『帰り道に何か起こるのではないか』『どうやって帰ろうか』と考えてしまいます。子どもたちの心に恐怖を植え付けるのです。入植者や兵士たちによる日常的な嫌がらせや暴行に対する恐怖のために、学校を辞めた生徒は10人ほどいます。とりわけ女性生徒に多いです」
【「住民入れ替え」政策】
アブ・サーミは収穫を終えた畑の後片付けに追われていた。乾燥地に残ったトゲのある雑草を鎌とハサミで一つひとつ刈り取っていく地道な作業だ。そのアブ・サーミから2、300メートルほど離れたところで、トラクターが土煙を上げている。
「入植者です」と、その方向を観ながら、アブ・サーミが言った。
「あの農地も含め、この谷の土地一帯は私の家族のものです。しかし15年前にイスラエルに没収されたました。今はこの部分だけを私たちが使っています」
アブ・サーミも土地を奪われた農民だったのだ。
アブ・サーミは、イスラエルがパレスチナ人の立ち入りを禁じている「砲撃地帯」へ呼ばれる地区に私たちを案内した。
彼によれば、1970年代にイスラエル当局は、この地域を「砲撃地帯」と宣言した。「砲撃地帯」とはその地域をイスラエルが「軍事演習用地」だと宣言し、「住民はいてはいけない」とされる。しかしこの「砲撃地帯」には以前から15のパレスチナ人の村が存在していた。彼らがその村に住むことは「違法」とされるのである。
「『砲撃地帯』などの口実でパレスチナ人から土地を接収する最大の目的は、土地を奪い、住民を追い出すことです」と、アブ・サーミは言い切った。
「南ヘブロン地区の他の地域も『国有地』という名目で土地接収の標的になっています。『山や丘は国有地』というオスマン時代の法律が根拠です。そうして接収した土地にイスラエル当局は入植地を建設するのです」
この「砲撃地帯」にもイスラエルの前哨基地「アビガイル」がある。
「イスラエルの法律によれば『違法』であるはずなのに、電気も水道もイスラエル政府によって支援されている」とアブ・サーミは説明した。
「砲撃地帯」の中にあるムファカラ村へ向かった。羊の遊牧で生活するこの村は、当局による「家屋破壊」に苦しんでいた。「違法」な地域に家を建てることは、「違法」だといういうのがイスラエル側の言い分だ。住民は何度となく、当局に「建設許可」をした。しかし許可が下りた事例はほとんどない。この村のモスクも二度破壊され、今も瓦礫のままだ。
この村につながるデコボコの道を整備しようと、村人が機械を用意して作業を始めると、イスラエル当局がやって来て、その機械を没収してしまう。しかも機械は長い間、没収され、それを取り戻すためには多額の罰金を払わされる。
「イスラエル当局はあらゆる『口実』を用います。『必要な手続き』が一例です。何かを建てようとすると、『許可』を申請しなければならない。土地調査など様々な書類を求められます。でもたとえ、それら全てを揃えても、絶対に『許可』は下りません。
つまり、イスラエルの法律では私たちの建築物は『違法』です。『建設許可』がないからです」
「国際法によれば、占領当局は被占領者に対し、あらゆるサービスを提供しなければなりません。しかしここでは全く逆のことが起こっています。イスラエル当局は、私たちに生活の設備もサービスも全く与えません。私たちには生活に不可欠なライフラインもないのです」
「この地域での占領当局の戦略は、私たちの生活をどんどん困難にし、ここから追い出すことです。そのために、土地を接収し、家屋や井戸や他の財産を破壊する。生活の安定も、安全もなく、兵士や入植者の妨害や暴行を受ける。封鎖や検問所や拘束などあらゆる手段を用います。そのようにパレスチナ人の生活をますます困難な状況に追い込むのです」
「これは『住民の入れ替え』政策であることは明白です。つまりパレスチナ人住民を追い出し、代わりにユダヤ人入植者をパレスチナ人の土地に呼び込むのです。これがイスラエルの戦略の主な目標なのです。だから私たちにとって、ここで生活すること自体が大きな“抵抗”なのです」とアブ・サーミが言った。(続く)
【写真はすべて筆者撮影】