忖度しないゴリゴリのフェミニストだった 『日本のヤバい女の子』著者・はらだ有彩さんの母
母がどんな風に生きてきたかを、私たちは話したことがあるだろうか。
1990年代まで、日本では専業主婦家庭が半数以上を占めた。
結婚後の女性が働ける職場は限られていた。
団塊やポスト団塊の世代に生まれ、70~80年代に子育てをしてきた母たち。
娘たちは母の生き方に何を見て、何を感じてきたか。
表舞台で語られることの少なかった女から見た1960~90年代を浮き彫りにしたい。
「テキストレーター」の肩書きで20~30代女性を中心に多くのファンを持つはらだ有彩さん。昨年刊行され話題となった初の著書『日本のヤバい女の子』の中には、母が「ゴリゴリのフェミニスト」だったという記述がある。彼女のお母さんは、どんな人なのだろう。
■「あんたのこと好きなんやけど、付き合うか付き合わないか今決めて」
――昨年、『日本のヤバい女の子』の出版記念イベントでお会いしたときに、私が性暴力の取材をしていることを話したら、はらださんが「母は性暴力救援センター・大阪SACHICO(以下SACHICO)の運営スタッフです」と教えてくださって。(※)性暴力救援センター・大阪SACHICO …大阪にある、日本で初めての24時間対応の性暴力被害者のための病院拠点型ワンストップセンター。2010年開設。
はらだ:そうですよね。
――性暴力の被害者支援に関わる人なら、SACHICOは誰でも知っています。昨年、私が関西の大学で性暴力のゲスト講義をした際、その前の回を担当されていたのがはらださんのお母さんで。そんな“縁”もあって、どんな方なのかお聞きしたいと思いました。
母は1964年生まれで、兵庫県神戸市の出身です。どんな人なのかと言ったら、全く周りの意見を気にしない人です。
母の文集を読んだら、小5のときにクラスでディベートをしたことが書いてありました。母の意見に賛同が大多数だったのに、データも根拠もないクラスメートの意見に、そのクラスメートが泣いたことによって一斉に風向きが変わった。それで「涙で人を操作することは人を幸福にしない」って書いていて。
――おお……。
それを母に言ったら「それから私は人前で泣いたことが一度もない」って言ってました。
――きっぱりしてますね!
あとは、中学時代に好きな男の子ができて、告白するかどうかを人に相談する思想がなく、ひとりで告白するって決めて、「あんたのこと好きなんやけど、付き合うか付き合わないか今決めて」って言って、付き合うことになったって。
――かっこいい。
でもそれをよく思わない女子たちが、「あなた知らないと思うけど、〇〇君、二股かけてるよ」って言いに来たらしいんですね。
――ありがちだ。
母は「別に彼が私の知らないところで何していても興味ないし。一緒にいるとき私が楽しければ」って言ったって。波風すごかっただろうなと思って。思ったことを過不足なく言う、忖度しないで言う、みたいな気性。
――自分の中学時代を振り返ったらそんな自我はなかったと思うので、すごいなと思います。
私もそうです!私は中高一貫の学校に通っていたんですけど、コートの中にマフラーを入れなきゃいけないっていう校則に、何の疑問も持ってなかったです。でも母は校則で禁止されているパーマをかけて登校して、呼び出された祖母も祖母で「子どもが自分の好きな髪型をすることの何が悪いのかわからない」って言って、結局そのままで良くなったそうで。
――1970年代後半ですよね。70年代、80年代は体罰死事件とか校内暴力とか、学校が荒れていたと言われる時代の中で、反骨精神があるっていうか……。
でも高校に入ったら突然自主的に丸刈りにしたそうです。ハンドボールに打ち込んでいて、部活後に汗だくの頭を水道で洗って帰りたかったからと丸刈りに。振り幅すごいなって(笑)。
――たしかに振り幅すごい。
■結婚・出産後、30歳を過ぎてから大学へ
――高校卒業後は?
高校時代にハンドボールに打ち込んでいたから、体育の教師を目指していたそうです。でも大学に落ちてしまって、どうしようかなって思ったときに「とにかく部活で筋肉ばかり鍛えていて、世の中のこと何も知らない。もっと社会を知らなくちゃ」って、カメラを選んだ。レンズを通して社会を知ろうと。それで写真専門学校へ。
――これまで知らなかった世界へ。
天王寺の新世界あたりで撮影をしていたそうです。当時の新世界って、日雇い労働者の人とか、ストリップで働いている人とかいろんな人がいて、声をかけその人の人生の話を聞きながら撮らしてもらって。日に何百枚と撮るので同時にフィルム代を稼ぐために高級ラウンジでバイトしたりも。結局お金を持っているからいいというわけじゃないということを知り、社会のコントラストと構造の矛盾を感じたと。
――お母さんが1964年生まれ、はらださんが1985年生まれということは、21歳でご出産ですよね。
結婚は20歳のとき、21歳で私が生まれました。その後30歳を過ぎてから神戸大の発達科学部に入学。社会的弱者の人権、それを搾取している人の矛盾、構造的暴力について大学で学びたかったそうです。大学院にも進んで、院では総合人間科学研究科で憲法学に基づき社会環境を研究してたそうです。
――はらださんのご実家は江戸時代から六代続くせんべい屋さん。勝手なイメージですが、「女将さん」の仕事が大変だったのではと思っていました。
そういう感じでは全然なく。私が小学生の時、母は大学に行っていたから、家にも店にもいない。父は父で、母は母で好きにやってました。一緒にいる日は母も一緒にご飯食べるけどって感じです。父は自分で食事をつくる人でしたし。
――余談ですが、おせんべいの秘伝のレシピとかあるんですか。
それはあるんです。店を継いだ弟は知ってるんですけど(笑)。そういえば母は、地域のミニコミ誌をずっと作ってましたね。「明石をもっと知ろう」みたいなミニコミ誌でした。この人いつも何やってるんだろう、楽しそうにやってるなあって思ってました。子育ても基本的に放任主義。
――「あんたもフェミニストになりなさい」とかそういうことはまったくなく?
まったくない。ピンクがダメとか言われることもなく、本当に何も言われたことがないです。
■80年代、珍しかった「女のための女の体」講座
――『日本のヤバい女の子』の中で、「母」は「ゴリゴリのフェミニスト」だったと書いてらっしゃいます。フェミニズムを考えるようになったきっかけは何だったのでしょう。
弟の出産後に体調が悪くなって、初めて自分の女性としての身体について考えたのがきっかけだったようです。それで「ウィメンズセンター大阪」がおこなっていた「女のからだをトータルに知ろう・学ぼう・考えよう」という講座に参加したのが現在の活動へと繋がっています。そういう講座は当時どこもやっていなくて、今現在も続いているけどやっぱり珍しいと言っていました。(※)ウィメンズセンター大阪…女性の性と身体と心の相談センターとして1984年に発足。
――今だと情報はそれなりにありますが、当時はウィメンズセンター大阪が先駆けだったんですね。
女の性と身体に関する講座をやっていたし、「女からだ110番」という今も続いている電話相談もありで、フェミニズム運動のひとつ「女の健康運動」をおこなっていた団体ですよね。体調が良くならないので産婦人科に行ってみたけど、ドクターの説明が全然わからない。学生時代に部活ですごく鍛えていて身体能力には自信があったのに、女の身体の内側のことは何もわからないのがショックだったと。そして講座で学んでみると、女の性と身体が社会の中でどのように扱われているかを知りさらにショックだったそうです。
――講座に行ってみたら良かった?
「女のからだは女のもの」というのがモットーの講座で学び、心と身体が連携するような感覚で、腑に落ちたそうです。講座に通ううちに「スタッフをやってみない?」って声をかけられて、トレーニングを受けて電話相談業務について、自分と同じように悩んでいた女性からの相談を聞いて。
――性被害に遭った女性からの相談もあったのでしょうね。
過去の被害の相談も多く、それが何十年経って身体症状に出ているというようなことが分かって、被害直後から支援があれば違っていただろうと感じたそうです。SACHICOの起ち上げに携わったのも、そういった経験からだと思います。
【豆知識】ウィメンズセンター大阪とその背景
ウィメンズセンター大阪は1984年設立。設立のきっかけのひとつは、その4年前に発覚した「富士見産婦人科病院事件」だった。当時は医師でなくても医療法人の理事長になることができ、同院では医師免許を所持しない無資格の理事長(医師である病院長の夫)が診療をおこなっていた。理事長は当時まだ珍しい超音波検査を行うなどし、健康に問題のない女性の子宮や卵巣を摘出したと報じられた。63人が原告となり民事訴訟を起こした。
1980年当時の日本で、女性医師の占める割合は10%以下(2016年時点でも21.1%、OECD加盟国で最低)。
「これは富士見産婦人科病院に通院していた女性だけの問題ではなく、全ての女性に共通する社会問題だと考え、女性が本当に望む医療を求め自分たちで女性のためのクリニックを作ろうと動き始めたのがウィメンズセンター大阪の始まりです」(参考1より)
女性たち自身が自分の身体について学ばなければならないという意図のもと、ウィメンズセンター大阪は専門家を招いての勉強会やワークショップ、女の悩みを語り合う場となった。
(参考1)「ウィメンズセンター大阪の役割」(原田薫)…『性暴力被害者への支援員の役割 リプロダクティブ・ライツをまもる』(性暴力救援センター・大阪SACHICO編)より
(その他の参考)「健康な子宮や卵巣を不必要な手術で切除横行…医師免許持たない理事長の産婦人科病院で」(北條元治/Business Journal)
■疑問は議論で解決したいのに、社会はそうじゃなかった
――お母さんからどんな影響を受けたと思いますか?
母はとにかく、自分の意見を言って議論をする人。CMにエプロンをしている女の人しか出てこないのはなぜか、とか。それを見ていたから、私は疑問に思ったことは口に出して議論したら解決するんだと思っていました。でも社会はそうじゃなかった……。
――はらださんは、芸大を卒業後に広告会社に就職した後、「つらい」「今でさえこんなに生きづらいのに昔ヤバくない?」と思ったのが『日本の……』を書くきっかけだったそうですね。
芸大でもしばしばセクハラ・パワハラが問題になっていますが、私の担当教授は女性でフェミニズムの視点を持ってる人だったんです。学生が「今日痴漢に遭った」って言ってたら「それ笑いごとじゃないよ、警察行ったほうがいいよ」って言ってくれる人。それがスタンダードじゃないと知ったのは社会に出てからで。
――何があったか聞いても良いですか。
社内でのセクハラとか、取引先の人から「部屋来る?」って言われたりとか。同僚が「あいつが仕事もらったのは枕営業だ」とか「仕事欲しかったら家に来い」とか普通に言う。当時は脳の機能が停止してて、誰にも相談しなかったんですよね。あとになってから言ったら、母は激怒してましたね。
■誰かにコントロールされるのは我慢ならない
――私は子どもの頃に、性暴力のことを大人からちゃんと教わっておきたかったなというのがあって。はらださんはお母さんから学んだことはありますか?
母はCAP(子どもへの暴力防止)活動もやっていたので、何かあったときに大きな声を出すとか、そういうワークショップに参加したりしていました。学校の周辺で時間を聞くふりをして股間を見せつけてくる人がいた時などに、そのワークショップを思い出したりしていました。
――公然わいせつだ。
そういう痴漢とかって、自分の想定の通りに相手のことをコントロールしようとしてるんですよね。びびらせたいという意図があり、びびらせようとしている。私は自分の行動を自分でコントロールする、自分のことは自分で決めろっていう教育方針を受けてきたので、誰かにコントロールされるのが我慢ならないと思っていて。
――親が子どもをコントロールするのではなく。
「好きに暮らしなさい」って家でした。母自身がそうやって育てられたんでしょうね。母の両親、私の祖父母は「なんでも自分で考えて決めろ」って方針だったそうで、母が20歳で12歳年上の父と「結婚しようかな」って言ったときも、「自分が良いと決めたならどうぞ」と。自分も好きなようにやるし、人のことをコントロールしたりもしない。
――前に、車の中から卑猥な言葉をかけられて言い返したって話をはらださんがツイッターで書いてらしたと思います。はらださん、普段は穏やかなイメージなだけに、こういうところがめちゃくちゃかっこいいなと思いました。
■指の形ではなく、指さしている先を見よう
――お母さんはインターネットを使いますか?
SNS系は全くやっていないです。現場主義なので、実際に会って話したこととか自分の目で直接見たものしか信じない。母より12歳年上の父は使っていますけどね。母がフェイスブックをやっていないのをいいことに、のびのび更新している(笑)。
――はらださんは、ネット上での男女対立をどう思いますか?
最近、NHKの「100分de名著」シリーズの、哲学者・三木清さんの『人生論ノート』特集を観たのですが、その中で、解説の岸見一郎さんが「指し示しているものだけを見ると分からないかもしれないけど、指の先にあるものが何か考えていくと、こういうことを言いたかったんだ、と分かってくる」という旨のことを仰っていたんです。それがすごく腑に落ちて…。
ネット上の議論を見て思うのは、主張をしている人の指さしている指の形が気に入らないとか、そういうことを言わないで、何を目指しているかを共有できたらいいのかなということです。
――どうしても揚げ足取りのような議論が多い。
揚げ足取りも毎回同じ揚げ足取りの繰り返しなので、「その話は前もしたから他の話しようよ」ってなったらいいと思います。でも、揉めてばかりで全然進歩していないように見えるけれど、母のやっていることとかを見ていると、実働している人、現実で運動をやっている人はいらっしゃるから、良くなっていくんだろうなっていう感覚はあります。
――私も過去に運動してきてくれた方々の積み重ねてくれたものは大きいなと思います。
母とか母の近くにいる人が動いていて、動いている人がゼロではない。ゼロではないっていうことはそのうち道が開ける。ゼロだと希望がないけれど、ゼロじゃないのがわかるのでそれは希望かなと。私は母みたいに実働しているわけじゃなくて、アプローチの仕方が母とは違うけれど。
――指さしている方向は同じ?
母は現在のレギュレーションがあることで苦しんでいる人にアプローチしている。そして個人の問題とされていることは、実は自己責任にすり替えている社会の問題だと。私は世の中にあるレギュレーションを疑っていきたい。たとえば、女の子は家に入るものとか、男の子がマニキュア塗ったらおかしいとか、そういうレギュレーションを壊したいです。やっている形はちょっと違うけど、指さしている先は同じですね。
【はらだ有彩さんプロフィール】
テキストレーター(テキスト/テキスタイル/イラストレーション)。2014年に、テキストとイラストレーションをテキスタイルにして身につけるブランド《mon.you.moyo》を開始。ウェブマガジン「アパートメント」「リノスタ」「She is」などにエッセイを寄稿。2018年に日本の昔話に登場する「女の子」たちを新しい解釈で語るエッセイ『日本のヤバい女の子』(柏書房)を出版。
※画像は作品より引用、年表は筆者作成。
※光文社サイト「本がすき。」での連載を加筆して転載。
【私たちの母の話 バックナンバー】
第2回 元国連職員・大崎麻子さんの「母」