「行動する専業主婦」だった母、「働く母」を選んだ私 それぞれの時代の中で
母がどんな風に生きてきたかを、私たちは話したことがあるだろうか。
1990年代まで、日本では専業主婦家庭が半数以上を占めた。
結婚後も女性が働ける職場は限られていた。
団塊やポスト団塊の世代に生まれ、70~80年代に子育てをしてきた母たち。
娘たちは母の生き方に何を見て、何を感じてきたか。
表舞台で語られることの少なかった女から見た1960~90年代を浮き彫りにしたい。
■フリージャーナリスト・治部れんげさんの「母」
“父は「結婚するから就職しなきゃ」って、そのときに就職をしました。今の時代だったら、母が仕事を続けて、父が院生のままで研究を続ける、という選択肢を考えたかもしれません”
“専業主婦だからといって何もしていないわけではないんですよね。家庭内で無償労働をして、子どもが育ったら地域で無償労働をして……”
フリージャーナリストとして取材や講演活動を続ける治部れんげさん。治部さんの母は、元教師。結婚を機に仕事を辞めたが、家にずっといるタイプでもなかったという。「今だったらNPOを起ち上げていたと思う」と治部さんが語る、母の姿とは。
■結婚を機に就職した父、退職した母
――今日は、お母さんのお話を聞きに来ました。
治部さん:私の母は1940年代後半生まれ、静岡の出身です。静岡大学のESS(英会話研究会)サークルで父と出会ったそうです。母は教育学部で、卒業後は小学校の先生になりました。母の父(治部さんの祖父)も教師だったので、先生になりたい気持ちがあったようです。父は卒業後、東北大学の大学院に進んで物理の研究をしていました。
――恋愛結婚だったんですね。
治部さん:母がお見合いをして、別の人と結婚が決まりそうになったらしいんですね。それを聞いた父は友達に相談して、「彼女のことを好きなんだろ」って言われて、母に公衆電話から電話をしたんだそうです。友達にもらった10円玉を使って。父は「友情の10円玉」って言ってました。時代を感じますね(笑)。
――結婚後は共働きですか?
治部さん:母は結婚と同時に仕事を辞めました。就職して3年目でした。職場が合わないということもあったみたい。それですぐ私が生まれました。母の妊娠中にれんげの花が咲いていたから、名前は「れんげ」。
父は「結婚するから就職しなきゃ」って、そのときに就職をしました。今の時代だったら、母が仕事を続けて、父が院生のままで研究を続ける、という選択肢を考えたかもしれません。他の家はどうかわかりませんが、母は「実家が封建的だから」と言っていました。でも、母は専業主婦でしたが、あまり家にはいなかったんです。
■「学生運動の裏で女におにぎり握らせてたくせに」
――というと?
治部さん:私が小さい頃は駅前で核兵器廃絶の署名集めをしたりしていました。小学校時代はPTAの役員などで外出が多く、私が帰ってくると鍵がポストに入っていて、置手紙に「今日のおやつは●●です」と書いてある。あとは野放しでしたね。今考えると結構危ないと思うんだけど。下に弟がいましたが、1人で過ごす時間が長かったから。
――やりたいことがあって、自由に活動されていたんですね。
治部さん:昼間は自由なんですけどね。いったん両親がけんかを始めると、父が必ず「誰が働いてると思ってるんだ」って言う。同じ大学の同級生同士なのに、父が稼いでいて、それで家がまわってるんだというのがありましたね。今思うと、母だって「私が産んで育ててる」って言ってもよかったんですよね。
――「誰が働いてると思ってるんだ」って、昭和あるあるなフレーズですね……!
治部さん:あの世代の男性は政治的にはとてもリベラルな人が多い。学生時代、社会主義に理想を見た人も少なくありません。でも家庭内では保守的で、ダブルスタンダードですよね。マルクスの「資本論」を読んでいて、労働者を資本家から解放することには関心がある一方、家庭内で女性が無償労働を担っていることには、あまり気づいていない。私は大学生だった頃、「あなたの世代は学生運動なんてしていたけど、裏では女におにぎり握らせてた」って言ったことがあります(笑)。父も怒ってけんかになりました。
■学童保育代わりの習字教室
――お母さんはその後、仕事に復帰することはあったのでしょうか。
治部さん:私が小学生だった頃に自宅でお習字の先生をしていたこともあります。当時は団地住まいで、放課後になると私の家にわーっと子どもたちがたくさん来て。家計の足しにはなっていたと思います。母は共働きの家の子の話を聞いてあげたり、トーストやインスタントコーヒーを出してあげたりしていましたから、地域の子の学童保育代わりになっていたかもしれないですね。
――そういう場所があるというのは地域にとって良さそうですね。
治部さん:今で言う「子ども食堂」みたいな機能。当時は「夜遅くまで家に人がいて嫌だな」と思ったりもしたけれど。母はおそらく、30代後半の頃、私が小学校高学年になって子育てから少し手が離れた頃に再就職しようとしていたと思います。でも、いい仕事があまりなかったみたい。産休の先生の代理教員を務めることはたまにありましたが。
――今も出産から仕事へ復帰するにはそれなりにハードルがありますが、当時は今よりももっと大変だったでしょうね。
治部さん:父がはっきり言っていたのが、「俺が残業するほうが家計にはプラスになる」って。父は弁理士だったので、主婦だった母が再就職するより時給はずっと高いです。これもよくあるセリフですけど、「外に出て働くなら家のことに支障がない範囲にしろよ」って、そういうのを聞いて不当だなと思っていました。今ほど選択肢がない中で、母は教職を持っていてもそれを活かせなかった。
■50代になって変わった両親の関係
――治部さんは子ども時代からジェンダー意識が高かったのではないでしょうか。お母さんに対して、何か言ったことはありますか?
治部さん:中学時代に憲法について習ったときに、母に「お母さんは“嫁に行った”んじゃなくて“結婚した”んだよ。お父さんとお母さんは対等なんだよ」って話したことがあります。母は「うんうん」と聞いていました。あとは、よく母が「家計が足りない」って言っていたんです。それを聞いて「じゃあ自分が働けば」って言ったことはありましたね。稼ぐ力に格差があって、夫に言いたいことが言えないのは嫌だし、夫だけが稼ぐべきとも思えなくて。
――厳しい言葉だ……。
治部さん:でもね、50代になって父が弁理士として独立したんです。その仕事を母が手伝うようになったら、父が家のことをやるようになったんですよ。
――えっ、びっくり!
治部さん:経理関係とか、来客対応を母がこなして。やっぱり母はそういうことが得意だったので、父も母のいる必要を感じたんでしょうね。私は当時、就職したばかりの頃でしたが、久しぶりに実家に帰ったときに、父の家での動きが違うなと思ったのを覚えています。母が疲れると仕事に響くので、父が布団を敷いたり、お風呂を洗ったりしていました。
――50代からでも人は変わるんですね。
治部さん:父は電脳おじいさんなので私のツイッターとかも見ていて、最近は母とジェンダーについて話すこともあるみたいです。「お箸は赤がいい」って父が言って、母が「女みたいね」って言ったら父が「そういうことを言うのはジェンダー的にどうなんだ」とか(笑)。
■「女の子は四年制大学に行くと結婚が遅くなる」
――治部さん自身は、進路や就職についてどう考えていたのでしょう。
治部さん:1990年代の始め頃、まだバブルの影響が残っていた時期でしたが、家を建てることになって千葉の田舎のほうへ引っ越したんですね。私は高校2年でした。のんびりした高校で、「女の子は四年制大学に行くと、結婚が遅くなる」という家の子もいました。私の場合はそう言われることはなくて、大学から一人暮らし。祖父の出身だったこともあって、一橋大学を志望しました。祖父が学生だった頃、一橋に女子学生はいませんでしたから、孫の世代の私が入学できたのも、時代の変化ですよね。学部選びのときは、女性の仕事が限られていることは知っていたので資格を取りたいと思って法学部。入学当時は司法試験を目指していましたが、こちらはすぐに挫折しました。
――結果的に日経BP社に入ったのは?
治部さん:当時は実は、就労意欲が全くなかったんです。入っていたゼミが左翼的で、企業のイメージは「汚職」みたいな(笑)。経営者といえば、トランプ大統領みたいな人がやっているイメージでした。でも就職しないと自活できない、自活できないと実家に帰るしかない……と考えて、本を読むのが好きだったから出版社を受けました。
■就職活動で言われた「女性は事務職です」
――当時は就職氷河期よりも前ですね。
治部さん:そうですね。当時は都市銀行がたくさんあったので同じ大学の男子たちはメガバンクを滑り止めにして、どこに行こうかなって迷っていたと思います。でも女子は総合職の募集が少なくて、就職内定の時期も男子より平均で1か月ぐらい遅かったと思います。
――治部さんは1997年に一橋大学を卒業されています。今から約20年前の状況が、そういう感じ。
治部さん:女子は就職で差別を受けるのが当然という時代でした。説明会に行ったある不動産会社では、「女性は事務職です」って言われました。手を挙げて「女性が総合職を希望したら?」と質問をしましたが、「事務職です」だけ。その後の筆記試験を受けながら、具合が悪くなりました。そういうのを経験するうちに、自分にとって何がどうしても嫌なのかを肌感覚でわかるようになりました。「女はこう」って言われるのが、私はすごく嫌だなって。男っていうだけで、私よりも能力のないかもしれない人から指示を受けるのは嫌だと。
――その不動産会社に入社することにならなくて、本当に良かったですね。
治部さん:その不動産会社の面接の日に、日経BP社の合否がわかることになっていたんです。不動産会社の最寄り駅について、電話で留守電を確認したら受かっていることがわかって、そのままその電話で不動産会社に面接に行かないことを連絡しました。性差別が当たり前みたいな会社に行かずにすんで、とても解放感があったことを覚えています。
■入社当時は、結婚・出産後の働き方が見えなかった
――1990年代を境に、共働きと専業家庭の比率が入れ替わります。ちょうどその頃に入社されていると思います。
治部さん:入社した頃、男性上司は専業主婦の配偶者がいる人が多かったです。なんとなく男性の道と女性の道が分かれていて、男性の道は「働く」。女性の場合は、「働く道を選ぶなら独身で」という雰囲気はまだ残っていました。ただ、人って周囲の状況を一般化して捉えるもので、身近に3人同じような人がいるとそれが「普通」になっていきますね。
私の場合、26歳ぐらいまでは子どもを産む気がありませんでした。(母が主婦でしたから、子どもを持ったら仕事を辞めるんだろうな、と思っていました)でも同期の女性で比較的早く結婚・出産して仕事と両立している人がいて、「そんなことが可能なのだな」と思うようになりました。気づいたら、同期の男性記者は共働きが大半でした。
――ご両親から特に何か言われることもなく。
治部さん:「結婚しろ」とも「子どもを持て」とも一度も言われたことがありませんでした。ただ一人目を産んだときに母が「私もばあばになれた」と喜んでいて、それで初めて「あ、この人は孫がほしかったんだな」って思いましたね。母は専業主婦にしては家事が不得意だったと思います。家の中は散らかっていることが多かったから、家がきれいでお菓子を手作りしてくれるような友達のお母さんを羨ましく思ったこともあったけれど、今思えば子どもがどう生きるかを自由にさせてくれたことは良かったと思います。
私と同世代の働く母親の中には、主婦だった実母から家庭に入るほうがいい、と言われて辛いという人も少なくありません。私が自分の母に最も感謝しているのは、専業主婦だった自身とは全く違う選択をした娘の生き方を100%認めて、肯定してくれたことです。
子どもたちの保育園で「おじいちゃんおばあちゃんを迎える日」があって、招待したらとても喜んでいました。「保育園って素晴らしいわね。私も保育園に入れたかった」って。
――治部さんは事実婚を選択してらっしゃいますよね。その理由を教えてください。
治部さん:私も夫も、それぞれ自分の名前が出る仕事を子どもが生まれるまで10年以上続けてきました。どちらかが変えるのは変だよねと思ったので。勤務先では、上司も人事も何も言わずに必要な書類作業を進めてくれました。私がどんな名前だろうと、私が書く記事が面白くて読者の役に立てば良い、という成果主義だったのがありがたかったです。
■根拠なき楽観主義で社会を変えていく
――お母さんとご自身が似てるなと思うところはありますか?
治部さん:根拠なき楽観主義ですかね。話せば何とかなると思っている。引っ越し先は千葉県のやや奥で、交通が不便な場所だったんですね。自家用車がある家庭は良いのですが、クルマを持たない高齢者が孤立して家に閉じこもりがちでした。それで母はコミュニティバスの必要性を感じて、すぐ国交省に電話していました。テレビで岩手県のコミュニティバスが素晴らしいっていうのを見たら、早速現地まで行ってみたり。
――行動力がすごい。
治部さん:近所の主婦仲間と一緒に全部の市議会議員をまわって話を聞いてもらって。予算がついて、バスが走るようになりました。特定の人にだけ話を聞いていても社会は変わらないから、なるべくいろんな人に話を聞く。そういう動き方が今の私と似ていると思いますね。もし母が私世代だったら、NPOを起ち上げていたと思う。
――通勤ルートが決まっているビジネスパーソンではないからこそ、気づいたことかも。
治部さん:専業主婦だからといって何もしていないわけではないんですよね。家庭内で無償労働をして、子どもが育ったら地域で無償労働をして……。母は今、市の行政改革委員会の委員をしています。「私は何もわからない」って言っているから、「大丈夫だから、今までやってきたことをちゃんと言ったほうがいい」ってアドバイスしています。
――治部さんは、フリージャーナリストとして特に働き方やジェンダーに関して発信してらっしゃいます。社会を変えていくという部分で、通じるものがあるように思いました。
治部さん:記事を書いたことによって、世の中に知られるべき情報が知られ適切なアクションが取られることがうれしいです。ジェンダーに関しては、「『女性は結婚したら家庭に入ればいい』と言ったら彼女に怒られたので講演を聞きに来ました」って男子大生がいたりします。素直だなって思いますね。課題はたくさんありますが、書くことは楽しいし、自分のやれることをやっていきたいと思います。
【インタビューを終えて】
もし自分が、結婚すると女性が「家に入る」ことが当たり前だと思われていた時代に生まれていたら、大変だったと思うことがあります。私は家事や料理よりも、外で働く方が好きだし、得意だからです。当時もきっと、そういう女性はいたはずです。そんな女性たちは、自分のエネルギーをどう発散させていたんだろうと思っていました。
治部さんの「母の話」を聞いて、「家庭内で無償労働をして、子どもが育ったら地域で無償労働をして……」という言葉が印象的でした。治部さんの「母」は、習字教室を開き、そこには学童保育のように放課後の子どもたちが集まり、また、夫の仕事を手伝って経理や事務をこなし、さらにはコミュニティバスの必要を国交省に交渉します。
「専業主婦」という言葉でくくられがちですが、彼女のように社会との接点を持ち、家庭外でも役割を担ってきた女性は少なくないのかもしれません。夫の収入に頼る存在と思われがちですが、一方で専業主婦の「無償労働」に社会が甘えてきた側面もあるように思います。
【治部さんプロフィール】
治部れんげさん/1997年一橋大学法学部卒業後、日経BP社で16年間、経済誌記者。2006年~07年ミシガン大学フルブライト客員研究員。著書にアメリカの共働き子育て事情を記した『稼ぐ妻 育てる夫』(勁草書房)、日本のワークライフバランスを考えた『ふたりの子育てルール』(PHP研究所)。取材分野は、働く女性、夫婦関係の再構築、男性の育児参加、子育て支援政策、グローバル教育、メディアとダイバーシティなど。東京都男女平等参画審議会委員(第五期)。財団法人ジョイセフ理事。財団法人女性労働協会評議員。
※光文社サイト「本がすき。」での連載を加筆して転載。