結婚後の働き方は変わった? 母と娘の1985年以前、以降 元国連職員・大崎麻子さんの「母の話」
母がどんな風に生きてきたかを、私たちは話したことがあるだろうか。
1990年代まで、日本では専業主婦家庭が半数以上を占めた。
結婚後の女性が働ける職場は限られていた。
団塊やポスト団塊の世代に生まれ、70~80年代に子育てをしてきた母たち。
娘たちは母の生き方に何を見て、何を感じてきたか。
表舞台で語られることの少なかった女から見た1960~90年代を浮き彫りにしたい。
■元国連職員・大崎麻子さんの「母」
"当時はまだ、男女雇用機会均等法(1985年制定)より20年近く前。女性の総合職はほぼ存在しない時代です。"
"留学の最後、卒業する頃になって私が「結婚する」と言い出して。母は「とんでもない」って。ここまで一生懸命勉強して留学もして、今は男女雇用機会均等法もあって女性も働けるのに、なぜ結婚という「束縛制度」に入るの?って。"
大崎麻子さんの著書『女の子の幸福論』を、学生時代に読めたらどんなに良かっただろうと思う。グローバルな視野、経済的な視点、ジェンダー問題への率直な姿勢。3つを兼ね備えた大崎さんは、若者に対していつも優しい。元国連職員で「女性のエンパワーメントのプロ」と称される彼女に、「母の話」を聞いた。
■母は松山の戦争遺児、60年代に上京して早稲田へ
――大崎さんのお母さんは、どんな人でしたか?
母は1944年3月生まれです。祖父は、母が祖母のお腹にいるときに出征して南方で戦死したので母は戦争遺児、祖母は当時でいう「戦争未亡人」でした。当時はそういう子どもがたくさんいた時代です。
――出生地は?
愛媛県の松山市。祖母の兄が紳士服店を営んでいて、祖母はお針子(仕立屋に雇われて衣服などを縫う女性)で生計を立てて母を育てました。母は面白い人で、どんな人とでも仲良くなるタイプ。今でも、大企業の社長さんでも外国人でも飲み屋で会う人でも、誰とでも気さくに話す人です。そして、正義感に溢れる人。それは家が道後の歓楽街のそばで、体を売って生計を立てる女性とか、いろんな人を間近で見て育ったからかもしれません。
勉強が良くできたようで、夏目漱石の『坊っちゃん』の舞台になった松山東高を卒業して、上京して早稲田大学教育学部に入りました。母一人、子一人で育って、自立心がすごくあったんじゃないかな。母が中学生のときに祖母が乳がんになって、「天涯孤独になるかも」という気持ちが強かったと思う。大学の授業料も、家庭教師などのアルバイトを掛け持ちして自分で払っていたと思います。
――就職は?
当時はまだ、男女雇用機会均等法(1985年制定)より20年近く前。女性の総合職はほぼ存在しない時代です。当時は父親がいないことが大きなハンデだったこともあり、小さな広告代理店に就職。働きながら、宣伝会議のコピーライター養成講座の受付もして、受講料を免除にしてもらって勉強し、その縁で、大手食品メーカーの広告制作室に転職したそうです。1年ちょっと働いたところで、結婚。父と母は大学のジャーナリズム研究会というサークルで出会ったのですが、同じ研究会の男子学生は大手の新聞社やテレビ局に就職が決まっていったそうです。新聞社に就職することになった父が最初は地方の支局勤務だったこともあって結婚を機に退職しましたが、その後も当時の同僚とは連絡を取っていました。
■1989年、40代でマーケティング会社を起業
――大崎さんが生まれたのが1971年ですね。
はい。3年後に妹、6年後に弟が生まれて、当時住んでいた千葉に祖母を呼び寄せて一緒に住んでいました。父は日曜日しか休みがなくて、毎日タクシーで深夜2時過ぎに帰ってくる。仕事って言っていたけど、付き合いの麻雀も多かったんじゃないかな(笑)。子どもと顔を合わせるのは日曜だけでしたが、日曜は必ず家族全員で夕食を食べる習慣がありました。
――3年ごとの3人きょうだいだと、子育て期間が結構長いですよね。
そうですね。母は家庭を第一にしながら、フリーでコピーライターを続けていたようです。父の転勤で盛岡に引っ越した時には、地元の広告代理店を探して履歴書を送理、単発の仕事をしていたようです。父の仕事は時間が不規則だったので、フルタイムでの就業は無理。それに、母子家庭で育ったので「普通の」家庭を作りたいという気持ちが強かったそうです。でも、私が大学に入学した1989年に、母は40代で起業するんですよ。
――今だと珍しくないと思うのですが、当時も主婦の起業はあったんですね。
五反田のビルの一室を借りてマーケティングの有限会社を1人で始めて、市場調査や商品開発をしていました。その頃、家族は鎌倉に引っ越していましたが私は都内の大学に通っていたので、ときどき母を手伝って、テープ起こしをしたり、グループインタビューのお茶出しをしたり。家のことは、母の代わりに祖母がしてくれていました。
思い出したけれど、母はその数年前に、広告代理店で契約社員として働いていました。当時、女性市場というものが注目され始め、母の生活者・主婦としての視点を強みになった。そこから市場調査やマーケティングに携わるようになったそうです。でも、そのときが一番大変そうだった。私も思春期で母に反抗していたので、帰宅した母が「ちょっとぐらいお皿を洗ってくれたっていいのに」って言うのに、「勝手に働きに行ってるくせに」って返したり。今なら母の気持ちがわかりますよね。自己実現と家計や教育費のために一生懸命働いていたんだと思います。
■キャリアを考えるきっかけとなった女性研究者との出会い
――進学や就職について、なにか言われたことはありましたか?
私は中学1年生の頃からずっと、上智大学に行きたいと思っていたんです。母がアメリカの映画や音楽が好きで、その影響で私も憧れていました。当時の子どもがみんな読む伝記シリーズでアルベルト・シュヴァイツァー博士を知ってお医者さんになりたいと思っていたことも。偶然、当時住んでいた家の近くにスイスから女性の研究者が来たことがあって、彼女がシュヴァイツァー博士の元で働いたことがある人だったんです。
母はそれを知って、彼女を家に招いてくれました。かたことの英語でおもてなしをして。それが強烈な体験で、「英語を喋れるようになりたい」と心から思いました。当時、「バイリンギャル」って言葉が流行っていたこともありますね。英語を喋るキャリアウーマンの女性たちがみんな上智を出ていました。
――留学もされていますよね。
高校でアメリカ・カリフォルニア州に1年間留学しました。当時はまだ高校留学が未知の世界で、母は周囲から「ドラッグを勧められるんじゃないか」「妊娠して帰ってくるんじゃないか」っていろいろ言われたみたいですね。友達の中には「女の子が留学なんてとんでもない」と言われて諦めた子もいました。旅立つ私を「これでもう一生会えないかもしれない」という覚悟で飛行機を見送ったそうです。
■二度目のアメリカ留学後、結婚宣言を機に母との仲に亀裂が
――大学時代は、どこへ留学されたのですか?
ペンシルバニア州のブリンマー・カレッジです。女子大で、卒業生には津田梅子もいます。リベラルアーツを教育している素晴らしい大学で、ジャーナリズムを学びました。母が遊びに来たとき、一緒にNYのエンパイアステートビルにのぼって、「マンハッタンすごい! 将来ここで働きたい!」って宣言したのを覚えています。でもこの後すぐ、母との関係が大変になるんです。
――ずっと応援してくれていたのに。
当時ちょうどビル・クリントンが大統領選に出ていて、女子大出身のヒラリーは女子大を巡って講演していました。女性のキャリアや政治参画の必要性がアメリカでしきりに言われていた頃です。そんなムードの中で、留学の最後、卒業する頃になって私が「結婚する」と言い出して。母は「とんでもない」って。ここまで一生懸命勉強して留学もして、今は男女雇用機会均等法もあって女性も働けるのに、なぜ結婚という「束縛制度」に入るの?って。
――「結婚という束縛制度」は、わかる気がします。
父と母は大学で同じジャーナリズム研究会にいたから、議論好きで、家の中でもしょっちゅう社会問題についてやりあってました。そうやって対等に議論はするけど、一方で性別役割分業はきっちり。社会的な立場としては母のほうが弱いのだろうなとは子ども心に感じていて。母は自己実現したい気持ちと社会における自分の間で葛藤があったのかなと思います。当時、大卒の女性たちの間では、桐島洋子さんや雑誌MOREが提唱するように、妻だけ、母だけというのはダメで、女性の自己実現が大事だという意識があったようです。母自身も、母子家庭で育ったので女性が経済的に自立しておくことの重要性がわかっていました。でも、同時に、父が働き母が家庭を守る「普通の家庭」への憧れもあったので、そのへんが葛藤ではあったけど、母が自分で導き出した最適解が、フルタイムで企業で働くのではなく、フリーランスで働き続けることであり、その先に起業があったのだと思います。
■妊娠で「あなたの人生は終わった」と勘当されるも……
――結婚宣言で母との仲に亀裂が走ったというお話でしたが、その後はどうなったのでしょう。
私は言い出したら聞かないと母もわかっているから、結局「仕方ない」と。でも、「ちゃんと夫と対等な関係にならないといけない」と言われて「はいはい」と聞いてました。でもその後、さらに揉めるんです(笑)。卒業と同時に結婚したのが1994年。その年にコロンビア大学の大学院に入学しましたが、NYに行ってすぐ妊娠したんですね。
――お母さんはびっくりしたでしょうね。
「あなたの人生は終わった」ぐらいのことを言われて。「結婚だけならまだしも、子どもが生まれたら子どもに対する責任が生まれる。大学院も子育ても、そんな片手間にできることじゃない、あなたは中途半端な選択をした」って、勘当されたんです。私も一度は、コロンビア大の事務局に入学辞退を申し入れました。つわりもひどくて、勉強は無理かなと思って。
――ご著書の『女の子の幸福論』にも書いてあったと思います。辞退の申し入れに行ったら、事務局の女性に「なんで?」と聞き返されたと。
そうです。「育児と勉強、両方やっている人はいくらでもいるから、なぜあなたにできないのか合理的に説明してくれ」って。「合理的に」って(笑)。やっぱりやってる人はいっぱいいるんだって勇気づけられて入学しました。日本だったら「はい、そうですね」で受理されていたはず。母に、「ちゃんとやって見せたい」という気持ちもありました。
――勘当はいつ解けたのですか?
1995年の3月に長男が生まれて、その数カ月後に里帰りしました。妊娠中は父と祖母とだけ連絡を取っていて、母は「孫は抱かない」って言っていたのに、見たらすぐ抱っこしてくれて。大学院を卒業して国連に入ってからも、よく来てくれました。息子が6歳の誕生日に「あなたも頑張ったわね」って言ってくれたのをすごく覚えています。
■バブル時代は学生でも「日給10万円」の通訳バイトが!
――ちょっと話が戻りますが、大崎さんが大学に入学された頃はバブル景気の真っ只中です。バブルの風を感じるようなことはありましたか?
私が大学に入学したのは、日経平均が史上最高値(3万8915円)になった1989(平成元)年です。上智にも外国人のタレントなんかがたくさん講演に来ていました。ですので、そういうスターやそのお付きの人の通訳をするバイトがたくさんあって、日給が10万円とか。それだけで月に100万円稼いでいる人もいました。私は新聞社でバイトしていましたが時給は600円で、たまにその通訳のバイトも。
――バブルの時期は就職活動での学生の囲い込みがすごかったと聞きます。
内定を出した学生に逃げられないようにハワイに連れて行く……とか。ただ、私が卒業した94年にはもうバブルが終わっていました。93年からは就職氷河期なので、92年卒と93年卒ではかなり差があって。ただ上智の場合、外資系を目指す学生が多かったのでそこまで影響はなかったかもしれません。当時は日本語と英語を完ぺきにできる人材が今より希少でした。
■母から教えてもらった「人とのつながり」の大切さ
――その後、大崎さんは1998年に国連のニューヨーク本部に入局され、2002年に第2子をご出産されます。
国連では周りがみんな長男をかわいがってくれました。「この子に妹か弟をつくろうと思っているとして、仕事がネックになっているならそれは心配するな。全面的にサポートするから」って。第2子の妊娠を告げたら局長含めてみんな喜んでくれました。
――アメリカではお互いの家庭を大事にする文化があるのでしょうか?
アメリカというか、国連のカルチャーでしたね。泊まりの研修にも家族連れで行っていいんです。だから山荘での合宿に母や子どもも一緒に来たことがあります。家族のためのプログラムもあって、メンバーは多国籍だからみんなでタレントショーをしたりして。私の母も一緒にやって、笑いを取って楽しそうにしていました。
――お母さんは、今はどうされていますか?
16年ほど前に父が亡くなり、鎌倉に一人で住んでいます。起業した会社は今も続けています。母は昔からいろんなボランティア活動をしていて、60代後半になってからは点字の勉強をして、その後、小学校の支援学級で弱視の子どもさんの介助員を2年勤めていました。大学は教育学部だったので、当時は教師になる夢もあったようですから、それも実現させましたね(笑)私も、子どもの頃からボランティアや社会的な活動、イベントの場に母に連れられていくことがありました。社会にはいろんな問題があって、解決に関わっている大人がいる。そういうことを教えてもらっていたと思います。
――お話を聞いていると、ビジネスでもプライベートでも人とのつながりを大切にする方だったのかなと思います。
仕事でも地域でも人脈があって、こういうことを学習したいというのが常にある人。私もやがてこうなっていくのかなというモデルになっていると思います。
【大崎麻子さんプロフィール】
1971年生まれ。女性のエンパワーメント専門家。元国連職員。上智大学卒業、米国コロンビア大学で国際関係修士号取得後、国連開発計画(UNDP)ニューヨーク本部に入局。大学院在学中に長男、国連在職中に長女を出産。現在はフリーの専門家として、大学、NGO、メディアなどで幅広く活躍。関西学院大学客員教授、聖心女子大学非常勤講師、TBS系「サンデーモーニング」レギュラー・コメンテーターなど。著書に『女の子の幸福論 もっと輝く、明日からの生き方』(講談社)、『エンパワーメント 働くミレニアル女子が身につけたい力』(経済界)。
※画像1枚め、2枚めは大崎麻子さんより提供、3枚目め、4枚目は筆者撮影/作成
※光文社サイト「本がすき。」での連載を加筆して転載。
【私たちの母の話 バックナンバー】
第1回 治部れんげさんの「母」