【光る君へ】腰痛を患った藤原道長が官職を辞めようと思うほど弱気になった理由
藤原道長が腰痛を患ってしまい、すっかり官職を辞めようと考えるほど弱気になったことがある。その辺りについて、考えてみることにしよう。
長徳2年(996)の長徳の変(藤原伊周・隆家兄弟の従者が花山法皇に矢を射た事件)は、道長にとって好都合な事件だった。伊周・隆家兄弟は左遷となり、一条天皇の中宮の定子は髪を切った。
一連の出来事によって、中関白家(道隆の系統)の没落が決定的となり、左大臣で内覧を務める道長の地位は揺るぎないものになったのである。
翌年、伊周・隆家兄弟は大赦により帰洛を許され、定子も参内することになった。当時、一条天皇の後宮には、藤原義子(藤原公季の娘)、藤原元子(藤原顕光の娘)が女御として入内していた。
公季は兼家(道長の父)の弟で、顕光は兼通(兼家の兄)の子だった。いずれも道長の強力なライバルだった。道長がうかうかしていられなかったのは事実である。
長徳4年(998)、道長は重い腰痛を患った。3月、職務の遂行が困難と考えた道長は、一条天皇に官職を辞して、内覧から退きたいと申し出た。
しかも、道長は官職などを辞するだけでなく、出家しようと考えていたのである。一条天皇は驚いたものの、決して道長の申し出を認めなかった。
道長は諦めず、大江正衡に依頼して上表文を作成し、再び一条天皇に辞職を申し出た。上表文によると、道長は自分が詮子の推薦や先祖の余慶により昇進を重ねたが、自分には徳がないと述べている。
とにかく道長は、腰痛が悪化しているので、もはや職務の遂行は不可能であると繰り返しているのだ。すっかり弱気になっていた様子がうかがえる。
北山茂夫氏によると、道長は病に伏している間に、たえず邪気に悩まされていたという。2人の兄が相次いで亡くなり、姉の詮子も病状が好転しなかった。
そのような状況下において、道長も腰痛に悩まされ、死の影に恐れの念を抱いたと北山氏は考える。出家というのも、起死回生の方策の一つだったという。
父の兼家、2人の兄は、激しい権力闘争の末に、権力の座を勝ち取った。一方で、道長は伊周と権力の座を争ったものの、伊周は自滅したのだから、厳しい試練を乗り越えたわけではない。
道長が官職を辞して出家するなどと言うのは、彼の心の弱さをあらわしていると北山氏は指摘する。考えようによっては、道長は甘えていたに過ぎないのだろう。
冬になると、道長の腰痛は少しずつ回復したが、政務に復帰することなく、宇治の山荘で過ごしていた。最初から道長には出家する意思はなく、一条天皇が許可するとも思っていなかった。道長の申し出は、単なる現実逃避に過ぎなかった可能性がある。
主要参考文献
北山茂夫『藤原道長』(岩波新書、1970年)