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毛利元就の子・隆元の死因は、食あたりだったのか? それとも毒殺か?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
毛利元就。(提供:アフロ)

 食あたりは怖いもので、今でも死に至るケースが見られる。毛利元就の子・隆元の死因は食あたりであるといわれているが、毒殺という説もある。この点について、考えてみることにしよう。

 永禄6年(1563)8月4日、毛利隆元が急死した。その前日、隆元は和智城で城主の和智誠春からもてなしを受けていた。隆元は元就の後継者でもあったので、毛利家中には動揺が広がった。隆元は、何が原因で死に至ったのだろうか。

 隆元は急死する前、各地を転戦し、帰国する途中だった。同年7月、隆元は元就の側室「おくみ」と面会し、三好小次郎の屋敷で酒宴に招かれた。隆元はわずかな飲酒にもかかわらず、酔いが回ったという。その後、隆元は医師の診察を受け、肺病であると診断されたが、10日ほど静養して元就のもとに向かった。

 すると、誠春の使者が訪れ、隆元をもてなしたいと申し出があった。誠春は、隆元の叔母婿だった。隆元は病後という理由で断ったが、酒宴は抜きということだったので、応じることにした。ところが、隆元は宴が終わり、宿所に戻ると吐血した。医師がやって来たものの、そのまま帰らぬ人になったのである。

 隆元の死因は、食あたりが原因であると言われてきたが、やがて毛利氏の家臣の間では、毒殺されたとの噂が流れていた。隆元を和智城に案内したのは赤川元保で、饗応したのは誠春である。隆元が亡くなってから数年後、この2人は元就の命令によって殺害された。

 隆元の死を状況から判断し、元就は自然死でないと疑い、元保が誠春と組んで尼子氏と通じ、毒殺したと考えた。元保が討たれたのは永禄10年(1567)で、誠春が討たれたのは永禄12年(1569)のことである。ともに、討たれたのは、隆元が死んでから4~6年が経過した頃だった。

 元保については、討たれたあとに嫌疑が晴れたという。身の潔白が証明されたのである。一方、元就は誠春が隆元の死と無関係であると思っていたが、誠春が積極的に身の潔白を証明しなかったので、討つことにしたといわれている。

 いずれにしても、2人の討伐が隆元の死から、数年を経ているのは疑問である。おそらく隆元は食あたりが原因だったのだろうが、元就は家臣を粛清する際、2人にあらぬ嫌疑をかけたというのが実際ではなかったか。いわば、家臣粛清の理由として、でっち上げた可能性がある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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