ブレグジット:バイデン当選で窮地のジョンソン英首相と「追い風」と喜ぶEU。
英BBC放送が「バイデンさん、BBCですが一言お願いします!」と聞くと、バイデン氏は「BBC? 私はアイルランド人だよ」と答えて、にっこり笑った。
今年1月、まだコロナ禍が広がる前のことだった。
このビデオはお蔵入りになっていたが、このほんの5秒の映像が、バイデン氏の当確が出た11月7日土曜日に、イギリスで広く放映されることになった。
北アイルランド問題は、欧州連合(EU)とイギリスの交渉で、最も頭の痛いテーマである。EU側から見ると、北アイルランド問題はイギリスに「人質」にとられているとさえ感じていた。
ここに、アイルランド系であることに強い誇りをもつバイデン大統領が登場する。
トランプ政権は、ブレグジット(英国のEU離脱)に関して、特に積極的に介入せず受け身だった。そして、ジョンソン首相が提唱するアメリカとイギリスの自由貿易協定に関しては、好意的な姿勢で臨んでいた。
昨年12月に英総選挙で保守党が圧勝した際、トランプ大統領が送ったツイートは以下のようなものだ。
「ボリス・ジョンソン、大勝利おめでとう。英国と米国は、ブレグジットの後に、大規模な新しい貿易協定を自由に結ぶことができるようになるでしょう。この取引は、EUとのどのような取引よりもはるかに大きく、有利なものになる可能性を秘めています。おめでとう、ボリス!」
この「アメリカとの関係強化をはかる」というジョンソン政権の方針は、イギリスの人々に「自由にアメリカと経済協定を結べるのも、EUを離脱したおかげだ」「ヨーロッパから離れても、アメリカと強く結びつけるなら、まあいいか」と思わせることができていた。
これらすべての前提が、バイデン登場で狂ってしまったのだ。
<BBCのニュース。「I'm Irish!」の所は 0:52 から見ると出てくる>
英国の法案に猛反発する米民主党
イギリスは既にEUを離脱している。まだ何も変化がないのは、移行期間が今年の年末までだからだ。もう時間がない。
大きな問題は複数あるが、最も先鋭的に対立していると言ってもいいのは、やはり北アイルランド問題である。
9月にジョンソン政権が「英国国内市場法」なるものを発表したのだ。
これが大問題を引き起こした。なぜなら、EUと英国の離脱協定で定められた「北アイルランドに関する議定書」の一部を無効にする条項を含んでいたからだ。しかも、もし合意なき離脱になった場合、定めたルールの一部を英政府が無効化する権限も含まれているという。
これは明らかに「北アイルランド議定書」のみならず、離脱協定本文にも反すると、EU側は猛反発している。EUと英国が結んだ離脱協定は国際条約なので、国際法違反にもなる。
欧州委員会のシェフチョビチ副委員長は「この法案を提出したことで、英国はEUとの信頼関係を深刻に傷つけた。信頼を取り戻せるかは英国政府にかかっている」とし、違反する所を同法案から速やかに削除するように要求した。
イギリスの側でも、メージャー元首相とブレア元首相が『サンデー・タイムズ』に連名で寄稿し、ジョンソン首相の提案は「英政府の名誉を傷つけ、国に恥をかかせる」ものであり、「法案は英国が批准した離脱協定に違反し、議会が可決した法を覆すもの」と批判した。
ブラウン元首相、キャメロン元首相、メイ元首相も批判している。
この「英国国内市場法」を、バイデン氏も批判していたのだ。
「北アイルランドに平和をもたらした(1998年の)聖金曜日合意(=ベルファスト合意)がブレグジットの犠牲になることを許すわけにはいかない。米英間の貿易協定は、聖金曜日合意の尊重と、厳格な国境の復活を防ぐことを条件にしなければならない。以上!」
さらに、米下院の外交委員会は、ジョンソン氏の「北アイルランド議定書を弱体化させようとする努力」の報告を聞いて「困惑している」と述べた。
首相への書簡(バイデン氏のツイートの下の部分)では、委員会は「米国と議会の多くの人が、ベルファスト合意と、これから結ぶかもしれない米英自由貿易協定の問題が、表裏一体の関係にあると考えている」「我々は、EUと英国が結んだ北アイルランド議定書を無視しようとする、法的に疑問で不公正な努力をすべて放棄するよう強く求める」と書いている。
そしてナンシー・ペロシ元米下院議長(民主党)は、声明で「英国が国際条約に違反し、ブレグジットがベルファスト合意を弱体化させるなら、アメリカと英国の貿易協定が議会を通過する可能性は絶対にないだろう」と述べた。
参考記事:イギリスで「連合王国」解体の危機が起こっていた。「国内市場法」の波紋。
追い風に喜ぶEU
このように、バイデン氏と民主党は、EUの超強力な援軍となりうる。
欧州議会の最大会派である欧州人民党(中道右派)の党首、マンフレッド・ウエーバーは語る。
「すぐに起こるインパクトは、ロンドンとの話し合いの改善です。ボリス・ジョンソンは、もうアメリカ人とすぐに大きな貿易協定を結ぶことができると言えないからです。もう誰もそのようなことを信じないでしょう」
「バイデン氏は、常にベルファスト合意の明確な支持者であり、これは議論においてアイルランドの立場を強化しています。このため、英国の友人との議論の中で、私たちヨーロッパ人にプラスの影響を与えるでしょう」。
オバマ時代からの確執
イギリスとアメリカの貿易協定に関する見込みは、様々な専門家が予測を述べている。
その件は別の記事で改めて書く予定だが、イギリスの専門家の中には、それでも楽観的な見通しを述べ、理由としていかにイギリスとアメリカの歴史的な絆が強いかを訴える人もいる。メディアの中では、いまだに「イギリスの離脱によって、ドミノ離脱が起きる」などと血迷いごとを言っている人すらいる。
しかし、おそらくイギリスだけを見ていても、今後の展望は見えないだろう。時代感覚がずれていたり、あまりにも誇りが高すぎる印象だったりするからだ。
2016年、オバマ政権の時代、ジョンソン首相は彼に対して「人種差別的」発言をしたことがある。
それは、オバマ大統領(当時)が、イギリスが特別な絆の印としてホワイトハウスに渡した「チャーチルの像」の問題のときだった。
大統領の執務室に置いてあったのだが、オバマ大統領がよけて、かわりにキング牧師の像を置いたという問題だった。オバマ大統領は、イギリスからの批判に対する弁明に追われたものだ。
参考記事(記事の後半にチャーチル像問題あり):ヘンリー王子はなぜメーガン・マークルさんを選んだのか。オバマ前大統領夫妻との関係は。
ジョンソン首相は、英『ザ・サン』のコラムにおいて、オバマ前大統領は「反英国感情」をもっているとし、その理由として「半分ケニア人を受け継いでいるから」と言った。ケニアはイギリスの旧植民地で、オバマ氏の父親はケニア人留学生だった。仏『ル・モンド』によると、この発言を、当時副大統領だったバイデン氏は忘れていないという。
バイデン氏が当確した日、オバマ政権のスポークスマンだったトミー・ヴィエタ氏は、ツイッターで「私たちは、オバマに対するあなたの人種差別的なコメントと、トランプへの隷属的な献身を決して忘れないだろう」と述べた。
バイデン氏は、ジョンソン首相のことを「身体的、感情的にトランプのクローン」と呼んでいた。もっともトランプ大統領も首相のことを「イギリスのトランプ」と呼んで賛辞していた。首相は、どちらの側からもお墨付きの「ミニ・トランプ」だったわけだ。
当のジョンソン首相はというと、米大統領選が大接戦で争っていた11月6日(7日に当確が出た)、首相官邸での会議で「バイデン氏は、私が侮辱したことがない数少ないリーダーの一人だ」と、冗談をとばしたという。英『サンデー・タイムズ』が報じた。笑った人は、どのくらいいたのだろうか。
移行期間終了の年末まで、あとわずか。バイデン大統領が登場するのは年明けだ。しかし、イギリスに好意的な米英貿易協定の望みは、ほぼ無くなってしまっている。
今から何か大きな動きがイギリスで起きるだろうか。起きるなら保守党は単独過半数をとっているので、保守党内部で何かが起きなくては難しい。あるいは市民の動きとなるだろう。といっても、コロナ禍で身動きがとれないのではないか。