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アフリカ・ブームの国際政治経済学 1.アフリカ・ブームの現状と背景(2)

六辻彰二国際政治学者

そのなかで、ルワンダ政府は「アフリカのシンガポール」を目指す方針を打ち出している。2006年には世界銀行によるICT関連に1,000万ドル相当の支援(eRwandaプロジェクト)を受け、首都キガリ近郊に情報関連ビジネスの集積所を設立するICTパークの設置が決定され、さらに先進国企業のコールセンター業務などを誘致することで、新たな産業と雇用を生み出している

しかし、ICTの普及を図ることは、通信産業以外への波及効果も大きい。税関申告(2005)や企業手続き(2006)がオンラインで行えるようになったことは、ローカルな企業活動の活性化に寄与している。また、図1-8で示すように、ゴリラの生態を観察できるエコツアーなどの観光産業に加えて、コーヒー豆をはじめとする農産物が輸出の柱となっている。このうち農産物に関して、ルワンダ政府は市場価格の動向などを把握できるシステムを開発し、これと携帯電話の普及により、人口の75パーセントを占める農業従事者がより効率的に農業経営を行える環境整備を進めている

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農業を中心とする小国ルワンダと、ICTを活用した経済成長は、一見したところミスマッチと映るかもしれない。しかし、ルワンダ政府が「アフリカのシンガポール」を目指した背景には、同国特有の事情があった。

ルワンダの人口密度はアフリカ大陸で最も高く、日本や韓国を上回る水準にある。そのため、土地が限られたなかでの経済成長を目指す必要がある。さらに、ルワンダでは多数派フツ主導の政府と少数派ツチのゲリラ組織・ルワンダ愛国戦線の間で発生したルワンダ内戦(1990-94)で、エスニシティ(民族・部族)間の凄惨な大虐殺を経験した。そのため、この国では、国民同士の融和を図るうえでも、物質的満足感を提供できる経済成長は欠かせない

これに加えて、ルワンダの場合、先進国に慣れ親しんだビジネスマンが多いことが、ICTの普及をはじめとするビジネス環境の整備を促してきた。1990年代以降のアフリカでは、戦闘、飢饉、貧困など様々な事情で国外、特に欧米諸国へ移住を希望する人が後を絶たず、海外への人の流出によって国自体がなくなりかねないという懸念が生まれた。これら国外に逃れる人々は、かつてローマ帝国にパレスチナの地を追われ、世界中にユダヤ人が離散した故事から「ディアスポラ(民族離散)」と呼ばれる。ルワンダ内戦で難民としてこの地を追われたディアスポラたちのなかには、先進国で学業を修め、ビジネスに成功し、そして復興のために帰国してルワンダ経済をけん引する人も少なくない(NHKスペシャル取材班、2011、『アフリカ-資本主義最後のフロンティア』、新潮社、第2章)。

この背景のもと、「アフリカのシンガポール」を目指す政府による経済改革は、これらICT普及にとどまらない。2008年、従来のフランス語に加えて英語が公用語に加えられたことは、1994年のルワンダ内戦においてフランス政府が関係の深いフツ主体の政府を露骨に支援して以来、これと争ったツチ出身のポール・カガメ現大統領などと関係が悪化したこともその一端だが、他方で国際的なビジネスシーンを視野に入れたものでもある。また、2010年には経済問題専門の裁判所が設置され、後述するアフリカのビジネス先進地であり、英語圏でもあるモーリシャスから判事が招かれている

貧困層を対象としたビジネス

天然資源分野以外にも海外から投資が集まる状況は、低所得層にもその影響をもたらしている。1日2ドル未満の所得水準の階層を「絶対的貧困層」と呼ぶ。アフリカの全人口の約80パーセントは絶対的貧困層に属する。「1日2ドルしか消費できない」購買力の低さは、投資家にアフリカへの投資を逡巡させる要因となってきた。

しかし、C.K.プレハラード(C. K. Prahalad)が2004年に著した『ピラミッドの底辺にある幸運』(C.K. Prahalad, 2004, The Fortune at the Bottom of the Pyramid: Eradicating Poverty through Profits, Pennsylvania: Wharton School Publishing)と、これを受けて2007年にA.L.ハモンド(Alen L. Hammond)らが著した『次の40億人』(Allen Hammond, William J Kramer, Julia Tran, Rob Katz and Courtland Walker, 2007, The Next 4 Billion: Market Size and Business Strategy at the Base of the Pyramid, Washington, D.C.: World Resource Institute)は、従来の捉え方を180度逆転させようとするものであった 。つまり、「1日2ドルしか消費できない」を「1日2ドルは消費できる」、言い換えれば「低いなりに購買力がある」と捉えなおすことで、低所得層は企業にとって顧客となり得る。

プレハラードは年間1,500ドル未満(ハモンドらは年間所得3,000ドル未満)の水準を所得階層のBOP(ベース・オブ・ピラミッド)、つまり所得階層の底辺に位置づけ、世界全体で40億人を占めるこの階層にアプローチできるかが企業の将来を左右する要因であると論じた。すなわち、貧困層が入手できる価格帯の商品を市場で供給することで、その消費を活性化させ、生活水準を向上させるとともに、それらの商品を生産する拠点を設けることで、雇用の創出にもつながるというのである。

ビジネスを通じて貧困の削減に寄与する」という考え方を受け、2008年にはUNDP(国連開発計画)と英国政府が世界中の民間企業に対して、「本業を通じて社会貢献に寄与する」ことを要請した。世界金融危機によって公的資金を通じた援助が先進国の大きな財政負担となり、一方で社会起業家やCSR(企業の社会的責任)といった用語が用いられるようになった背景のもと、特に欧米諸国の企業の間にはBOPビジネスへの参入がみられる。そして、10億人の人口の約80パーセントが絶対的貧困層に属するアフリカは、その主な対象の一つとなっているのである(佐藤 寛 編、2010、『アフリカBOPビジネス-市場の実態を見る』、ジェトロ)。

アフリカにおけるBOPビジネスで、現在最も注目されているのが、ケニア政府と英国ボーダーコムが出資するサファリコム(Safaricom)が提供するM-Pesaである。M-Pesaは、携帯電話を通じた送金などの金融サービスである。顧客はケニア全土に3万7,000以上あるサービスカウンターで現金を預け、ショートメッセージを送金相手に送る。受け取り手は、最寄りのサービスカウンターで先ほどのショートメッセージを提示し、現金を受け取る。

先述のように、アフリカでも携帯電話の普及が進んでいるが、金融機関は社会的信用に乏しい貧困層に口座を開設させない。例えば図1-3でみたように、出稼ぎに出た者の送金はアフリカにおける重要な資金源になっているが、金融機関を利用できなければ、これを受け取れない。あるいは、農村と都市との資金流通が可能になることで、都市向け農作物の出荷なども促されやすくなる。つまり、貧困層にも金融サービスへの需要はあるのである。潜在化している需要を顕在化させることで、経済活動は活発になる。

この背景のもと、2013年のサファリコムの国内シェアは65パーセントを占める。世界全体でモバイルマネーの利用者は約6,000万人といわれるが、その約3分の1はケニア国民とみられている。国民の73パーセントがM-Pesaなどのモバイルマネー顧客で、日常的な買い物でも利用されるようになっているため、その年間取引額は100億ドルにのぼる。BOPビジネスの成功例として注目を集めるだけでなく、2013年にはエコノミスト誌が、世界のモバイルマネーのけん引役としてサファリコムとM-Pesaを取り上げている。

外資誘致のレースを勝ち抜く条件としての「強い政府」

このように、いまやアフリカへの投資は多岐に渡るが、大規模な資源輸出国でない国が全て、先に取り上げたエチオピアやルワンダのように、投資家を引き付けられるわけでない。これを大きく左右する要因として、「政府の能力」があげられる。

エチオピアとルワンダは、1990年代にそれぞれで発生した内戦を勝ち抜いたゲリラ組織、エチオピア人民革命民主戦線とルワンダ愛国戦線が、そのまま与党となった点で共通する。いずれも、定期的に選挙は実施されるものの、与党が政治権力を独占しており、政権交代は事実上あり得ない。この点において、エチオピアとルワンダのそれは、東南アジアを含む東アジア一帯で一般的な、強い政府のリーダーシップで経済改革を推し進める、いわゆる開発独裁体制に近いといえる。

アフリカでは、数多くのエスニシティ(民族、部族)が国内で林立することが珍しくなく、「反対派を抑えこむ」という意味で強権的な政府は多くとも、「法令や政策を国内で浸透させる」強さを備えた政府は必ずしも多くない。言い換えれば、「強い政府」が稀という点でアフリカは東アジアと大きく異なるのである。

他方で注意すべきは、「開発のためには民主主義より独裁が優れている」という考え方が、必ずしも一般法則といえないことである。現代のアフリカでは、南アフリカをはじめ、ボツワナ、モーリシャス、ガーナなど、民主的な政治体制を備えながらも、良好な経済パフォーマンスを示す国もあるからである。むしろ、ここで強調すべきは、民主制であれ独裁体制であれ、天然資源を豊富に産出しないにもかかわらず顕著な経済成長を実現している国は、外資誘致のための制度改革に余念がないことである。例えば、モーリシャスの事例をみてみよう。

モーリシャスはインド洋に浮かぶ島嶼国で、国土面積は東京都とほぼ同じの2,045平方キロメートル、人口は神奈川県の川崎市よりやや少ない130万人にすぎず、天然資源もほとんど産出されないが、一人当たりGDP8,040ドル(2011年)はサハラ以南アフリカで指折りの高所得国である。さらに、モーリシャスは2000年から2012年までの平均GDP成長率が4.2パーセントと堅調なパフォーマンスを維持している。その一方で、モーリシャスはボツワナとともに、1960年代から一貫して複数政党制を維持した、数少ないアフリカの事例として知られる

一般的に面積が狭く、人口が少ないことは、経済成長にとってのハンディとみなされがちである。しかし、モーリシャスの場合、狭い土地で少人数であることが、逆に政治勢力間の対立のヒートアップを抑え、政情を安定させる要因となっている。政治的・社会的な安定は、外資を誘致するうえでアドバンテージとなる

これに加えて、モーリシャスにはもともとインド系人が多いこともあり、主にインドから繊維や医薬品などの投資を受け入れてきた。図1-9はモーリシャスの主な品目別の輸出額を示しており、ここからは農産物の合計を機械類や衣類といった製造業が上回っていることが分かる。また、リゾートとして観光業が発達している他、さらにいわゆるタックス・ヘイブンとして金融業にも進出しており、インドや米国などの企業による対アフリカ投資の拠点にもなっている。これらの産業の発達は、いずれも対外投資によって支えられてきた。

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モーリシャスへの対外投資は、政治・社会的な安定やインド系人の多さだけでなく、投資家が好む諸制度の整備によって促されてきたといえる。表1-4は、世界銀行が発行するDoing Business で示される、「企業活動を行いやすい国」の2011年度のランキングを抜粋したものである。これによると、モーリシャスはEU圏のスペインやイタリアよりビジネスしやすい国と評価されている。司法の透明性や納税のしやすさなど、海外の投資家にとって安心材料となる制度の整備を進めてきたことが、モーリシャスへの投資を促した側面は大きい。

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例年アフリカ最上位にランキングされているモーリシャスほどでないにせよ、セーシェルやサントメ・プリンシペなど、天然資源に乏しく、面積や人口が小さく、政情が安定している島嶼国ほど、総じてDoing Businessのランキングで上位に入る。逆に、ナイジェリアやチャドなど大規模な油田を抱え、「黙っていても投資が集まる」国は、おおむね市場経済に親和的な制度設計に熱心でないこともうかがえる。

グローバルな地殻変動が「最後のフロンティア」を生んだ (1)新興国の台頭

大規模な資源産出国がビジネス環境の整備に総じて熱心でないことが逆説的に象徴するように、アフリカに対する関心の起爆剤は、その豊富な天然資源である。しかし、アフリカで天然資源が豊富なことが、今に始まったわけでないことは、言うまでもない。それでは、なぜ近年になってアフリカに対する関心が急に高まったのだろうか。アフリカ域外の主要国の動機づけやアプローチは機会を改めて詳しくみるとして、ここではアフリカを取り巻く三つのグローバルな政治経済の変動を確認しておこう。

第一に、新興国の経済成長である。中国、インド、ブラジルをはじめ、新興国が2000年代に急激に成長し、消費水準が高まったことで、図1-10で示すように、食糧とともに原油など天然資源の需要が高まった。後述するように、資源価格の値上がりは投機的な資金の流入を促し、さらに価格高騰を促した。

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いずれにせよ、このなかで新興国は世界の資源市場に本格的に参入せざるを得なくなったのだが、石油・天然ガスに限定すれば、世界の原油の7割を埋蔵するといわれる中東・北アフリカは、第二次世界大戦以前から欧米企業、なかでも米国企業が多くの権益を握ってきた。そのため、天然資源を確保したい新興国にとって、中東・北アフリカより競争が緩やかな参入しやすいフィールドが求められ、そのなかでサハラ以南アフリカがクローズアップされたのである。

アフリカは長く貧困と紛争の絶えない土地とみられ、資源開発が遅れていた。しかし、これによってアフリカは「いまだ手つかずの資源が豊富にある土地」として再評価されたのである。そのなかで、図1-11で示すように、中国のアフリカからの燃料輸入額は、2000年から2012年までの間に約15倍増えており、2012年には米国を上回って一国単位で最大となった。化石燃料だけでなく、鉱物に関しても、構図はほとんど同じである。

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これに加えて、新興国には急激な経済成長を支えるために、市場を開拓する必要があったことも看過できない。既に述べた通り、アフリカの人口は2014年段階で約10億人だが、その約80パーセントが1日2ドル未満の所得水準にある。そのため、多くのアフリカ人は長い間、ほとんどの先進国企業から顧客とみなされなかった。これに対して、新興国の製品は総じて先進国のものより価格が安いため、先進国企業以上にアフリカ市場に食い込みやすいといえる。

さらに、アフリカでは人口爆発がとまらず、現在のペースで増加すれば、2040年頃には約20億人に膨れ上がることになる。人口爆発は貧困や環境破壊の遠因でもあり、取り組むべき課題であるが、他方でアフリカが中国やインドに肩を並べる規模の市場に成長する可能性を示しているともいえる。将来性だけでなく、貿易を増やすことで相手国政府と関係を強化できれば、資源開発に関する交渉においても有利となる。

これらの背景のもと、図1-12、1-13で示すように、新興国は先進国を凌ぐ勢いでアフリカ市場にアプローチしてきたのである。これは長くアフリカの政治・経済に大きな影響力を持ってきた欧米諸国の警戒感を強め、その「アフリカ回帰」を加速させる触媒ともなった。先述した、欧米企業がBOPビジネスへの関心を強めたタイミングが、新興国によるアフリカ市場の開拓が顕著になった時期であったことは、示唆的である。

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グローバルな地殻変動が「最後のフロンティア」を生んだ (2)欧米諸国のエネルギー戦略

新興国の進出に対する警戒以外に、欧米諸国はエネルギー確保の観点からも、2000年代にアフリカへの関心を強めざるを得ない状況に直面していた。まず、中国と並んでアフリカ進出が目覚ましい米国を取り上げよう。

2001年同時多発テロ事件とその後の対テロ戦争のなかで、図1-14で示すように、米国はエネルギー需要をまかなうために中東からの燃料輸入額そのものは段階的に増やしたものの、燃料輸入に占める中東諸国の比率を減少させた。中東にエネルギーを大きく依存したままでは、対テロ戦争の遂行が困難になるからである。特に、サウジアラビア王室の関係者から同国の財閥出身で国際テロ組織アル・カイダの首謀者だったオサマ・ビン・ラディンに資金が流れていたことは、米国内部の中東不信に拍車をかけた。

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しかし、言うまでもなく、中東産の石油・天然ガスの輸入を減らすためには、その分を他で調達しなければならない。この背景のもと、米国もやはり新規エネルギー供給地の確保に血道をあげ、そのなかでアフリカへの関心を強めることとなった。その結果、図1-11で示したように、2000年代半ば以降、米国向けのアフリカ産燃料の輸出が急激に増えたのである。

一方、ヨーロッパ諸国は地理的に近いうえ、植民地支配の歴史的経緯もあって、もともとアフリカとの経済関係が緊密であった。しかし、やはり図1-11で示したように、2000年代に従来以上に資源分野でアフリカへの関心を強めた。その背景としては、燃料輸入に占める中東の比率を減少させざるを得なかったことや、新興国のアフリカ進出に対する危機感において米国と同様だが、他方でヨーロッパ特有の事情として、ロシアとの関係悪化が見逃せない。

冷戦期から、西ヨーロッパ諸国はソ連産天然ガスを部分的に購入していたが、2000年代にはこれが一気に増加した。EUが東欧に拡大したことで、ロシア産の原油・天然ガスがヨーロッパで流通する比率は、さらに増加した。ところが、これによって西ヨーロッパ諸国はロシアの影響力にさらされることとなったのである。

2005年1月、ウクライナの民衆蜂起「オレンジ革命」の結果、親ロシア派のヤヌコーヴィチ政権に代わって、親欧米派のユーシチェンコ政権が誕生した。これに対して、ロシアの政府系企業ガスプロムがウクライナに天然ガス価格の引き上げを通知した。ユーシチェンコ政権との交渉が難航した挙句、ガスプロムは厳寒期にウクライナ向け天然ガスの供給を停止したのである。この影響は、ウクライナ経由のパイプラインでロシア産天然ガスを購入しているドイツなど西ヨーロッパ諸国へも及んだ。

これに代表されるように、資源価格の高騰を背景に、それまでの鬱積を晴らすような、強硬な外交姿勢が目立つようになったロシアへの警戒感は、ヨーロッパ諸国をしてやはりエネルギー供給地の多角化に向かわせ、そのなかでアフリカへの関心が高まったのである。図1-11と図1-15を比較すると、EUの燃料輸入に占めるアフリカ産の比率が下げ止まったのと、ロシア産の比率が頭打ちになった時期が、ほぼ符合することが見て取れるだろう。

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グローバルな地殻変動が「最後のフロンティア」を生んだ (3)金融市場の変動

第三に、そして最後に、金融市場の変動である。すなわち、金融市場の動向が原油・天然ガス価格の高騰を加速させ、これがエネルギー供給地としてのアフリカに対する関心を高めたのである。

1973年の第四次中東戦争をきっかけに、多くの産油国はそれまで欧米系の巨大石油企業(メジャー)が管理していた油田やその設備を国有化した。それ以降、国際的な原油価格は、主な産油国の集まりであるOPEC(石油輸出国機構)の年次総会で割り当てられる各国の産出量によって調整されたのであるが、1980年代の末頃には市場経済の原理が導入された。1987年にOPEC加盟国は、市場相場の平均値に連動させて原油価格を決定する「フォーミュラー方式」を導入した。これによって大きな影響をもつに至ったのが、NYMEX(ニューヨーク・マーカンタイル商品取引所)の先物取引価格である。NYMEXで主に取り扱われるのはアラスカ産など限られた油種だが、この先物価格に連動して、OPEC加盟国の原油価格が決められるようになったのである。

ただし、こうして原油市場の市場経済化が進んだことは、同時に原油価格がより流動化しやすい状況をも生んだ。特に1990年代以降、金融取引の規制がグローバル・レベルで緩和されるなか、穀物市場とともに原油市場は、金融市場の動向に大きく影響を受けるようになったのである。先述のように、2000年代の半ば以降、原油・天然ガスの国際市場価格が高騰している。ただし、新興国での消費増加により、実際に需要が高まっているとしても、供給が著しく不足しているとはいえない。世界最大の産油国で、その輸出量の調整によって国際的な原油価格に影響を及ぼす「スウィング・プロデューサー」であるサウジアラビア政府は、世界レベルでのエネルギー需給はバランスがとれていると再三強調している

それでは、なぜエネルギー価格は高騰しているか。そこには、投資家の心理が大きく影響してきたといえよう。すなわち、新興国の経済成長や、対テロ戦争による中東・北アフリカ情勢への懸念などで、「天然資源の需要が高まっている」という見方が投資家の関心を呼び、これによってエネルギー市場に資金がさらに流入することで、実体価値以上に価格が高騰してきたことは否めない。金融危機以降、投資家が金融商品を警戒し始めたことに加えて、米国政府が超低金利政策を導入したことは、行き場を求めていた膨大な資金を、より一層エネルギー市場に流入させてきた。価格の高騰が、各国の政府・企業をして、さらに先を争ってアフリカの資源開発に向かわせる循環を生んできたのである。

新興国の台頭、欧米諸国のエネルギー戦略、金融市場の変動の三つの要因が絡まりあうなか、世界の関心がアフリカに集まったことは不思議でない。言い換えれば、グローバルな政治・経済の変化が、アフリカを「最後のフロンティア」に生まれ変わらせた大きな要因なのである。この背景のもと、各国はアフリカで熾烈なレースを繰り広げているのである。

アフリカ・ブームの国際政治経済学 2.「新たな争奪戦」(1)に続く

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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