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[高校野球]国学院久我山が37年ぶりV。惜敗の二松学舎大付は秋の決勝3連敗

楊順行スポーツライター
(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

 限られた練習環境ながらつねに上位に進出し、この秋も劇的にサヨナラ勝ちした国学院久我山には敬意を表するが、ここでは二松学舎大付の"惜敗率"についてちょっとウンチクを。

 二松学舎は2013年まで、センバツには4回出場していた。2回目の1982年には準優勝。決勝でPL学園に敗れたのだが、そのときのエースが現在チームを率いる市原勝人監督だ。だが、夏の甲子園には不思議と縁がなかった。東京が東西の2代表に分割される以前の71年を皮切りに、13年まで東東京の決勝に進出すること10回。だがそのたびに、帝京や関東一など、並み居るライバルに敗れていたのだ。

 ようやく夏の甲子園にコマを進めたのが14年。東東京の決勝では8回に同点に追いつき、延長10回で帝京を振り切った。実に、夏の決勝11回目にしての初出場だ。それ以後は呪縛が解けたように17、18、21年と3回進出した夏の東東京決勝では負けなし。決勝での悲運、というイメージを払拭しつつあった。そして14年を含めて4回の夏の甲子園ではいずれも1勝を記録し、近年は東東京をリードする存在になりつつある。

 ただ、夏初出場の14年以後も、秋に限ってはやや勝負弱いままだ。秋季東京都大会で優勝すれば、翌年のセンバツ出場がほぼ当確になるが、二松学舎大付は14、15、そして今年と、秋の東京大会決勝で3連敗(ただし、15年のセンバツには出場している)。この秋は、2点をリードした9回裏の逆転サヨナラ負けだから、なんとも巡り合わせが悪い。

惜敗率では旭川東も……

 その二松学舎以上の決勝敗退率、つまり甲子園出場にあと一歩、ということで突出しているのが、北北海道の旭川東だ。かつての二松学舎同様、地方大会の決勝に10回進みながらいずれも敗退している。伝説の剛腕・スタルヒンの母校(当時は旧制旭川中)で、スタルヒン在学中の33、34年と全国中等学校優勝野球大会の北海道大会決勝まで進んだが、33年は北海中(現北海)に敗れ、34年はスタルヒンが札幌商を11三振、2安打に抑えながら、バックのエラーで惜敗と、あと一歩で甲子園を逃した。

 この後スタルヒンは、来日した大リーグ選抜チームと対戦する全日本の一員に選ばれ、そのまま中退して発足間もない巨人に入団。やがて日本プロ野球第1号の300勝を達成し、シーズン最多の42勝を挙げるなど、日本プロ野球黎明期の大投手となった。

 それ以前にも旭川中は、初めての決勝進出(26年)で同地区の旭川商に敗れてから、スタルヒンまでにつごう3回、それ以後も5回、(北)北海道の決勝で敗れている。つまり、スタルヒンのいた2回を合わせ、これに勝てば甲子園という地方大会の決勝で10回敗れているわけだ。

 甲子園の常連なら、地方大会決勝での敗退はめずらしくなくても、勝って甲子園に行くことも同じくらいあるはずだ。だが旭川東の場合、10回決勝に進みながら、一度も勝っていない。付け加えれば53年には、秋の全道大会決勝で0対1と惜敗。勝った北海は翌年センバツに出場しているから、ここに勝っていれば甲子園、という試合では11連敗ということになる。

 旭川東が北北海道の決勝に進出したのは、69年の夏が最後で、それが11敗目だ。旭川大や旭川実などの私立が勃興したいまは、旭川地区を勝ち抜くのすらむずかしくなっている。屈指の進学校である旭川東にとって、二松学舎大付が果たしたような決勝での連敗脱出は、ちょっと考えにくいかもしれない。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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