さようならソウル劇場 姿消すソウルの老舗映画館
8月31日、ソウルの代表的な映画館「ソウル劇場」が閉館した。また1つ、ソウルの老舗映画館が姿を消した。
ソウル劇場は1978年に鍾路(チョンノ)3街に開館した。1980年代から2000年代半ばにかけて「団成社(タンソンサ)」「ピカデリー」と共に韓国映画のメッカとして栄えたが、すでに団成社もピカデリーもなくなっていて、最後の砦ソウル劇場までなくなってしまった。
2000年代前半に韓国に留学した私も、映画を見るなら鍾路3街だった。特に上映スケジュールを調べずに行っても、3つの映画館のどこかで適当な時間に見たい映画をやっていた。ソウル劇場の前にはスルメの屋台があり、スルメの香りが漂っていたのも今や懐かしい思い出だ。韓国では映画館でポップコーンだけでなくスルメを食べる文化があった。
名残惜しい気持ちいっぱいで、最終日の31日にソウル劇場を訪れた。平日の午後だったが、閉館を惜しむ老若男女の観客でにぎわっていた。8月は観客への感謝企画で旧作を上映していて、私はレオス・カラックス監督の「ポンヌフの恋人」(1991)を見た。ソウル劇場の思い出と共に忘れられない作品になりそうだ。感謝企画では、是枝裕和監督の「歩いても 歩いても」(2008)や中島哲也監督の「嫌われ松子の一生」(2006)などの日本映画も上映された。
ソウル劇場ゆかりの映画人としては、イ・ジュンイク監督が挙げられる。「王の男」(2005)や「金子文子と朴烈」(2017)などで知られる監督だ。イ監督はかつてソウル劇場の宣伝部長だった。韓国の映画雑誌「CINE21」ではソウル劇場閉館に合わせてイ監督のインタビューを掲載した。イ監督がソウル劇場に勤めたのは1986年から2年間で、映画のポスターや看板、新聞広告などのデザインを手がけた。CINE21の記事によれば、当時は民主化運動が盛り上がっていた頃で、毎日のように催涙弾が飛んでいたという。「デモ参加者が劇場に逃げ込んでくることもあった」と振り返った。ソウル劇場には映画人の出入りも多く、そこでの交流が、イ監督が映画作りに踏み出すきっかけとなったという。今年3月にはイ監督の「茲山魚譜(チャサンオボ)」が公開されたが、ソウル劇場では10週以上にわたって上映された。韓国ではかなり長い上映期間だ。劇場ゆかりの監督を応援する意味もあったようだ。
ソウル劇場によると、閉館の理由の1つはコロナ禍での観客数の激減だという。映画を劇場でなくOTT(オンライン動画サービス)配信を通して自宅で見る人が増え、コロナがある程度収束してもコロナ流行以前の水準まで観客数が回復することはなさそうだ。ソウル劇場を運営してきた「合同映画社」は劇場経営だけでなく映画の制作や配給も行ってきたが、今後は映画に限らず多様なコンテンツの投資や制作など新たな事業に乗り出すという。
韓国映画振興委員会(KOFIC)によれば、2020年の韓国映画市場の劇場売上高は前年比73.3%減の5104億ウォンだった。これは韓国の映画産業が本格的に発展し始めた2000年代初頭の水準で、20年間持続的に伸びてきた売上高が一気に逆戻りしたようなものだ。
ソウル劇場は当初スクリーン1つで始まったが、徐々にスクリーン数を増やし、韓国初の「シネコン(シネマコンプレックス)」として注目を浴びた。ところが2000年代、シネコン大手のCGVやロッテシネマ、メガボックスが劇場数を増やし、老舗劇場の経営を圧迫するようになった。
ピカデリーは現在「CGV ピカデリー1958」に変わって運営中だ。実質はCGVだが、1958年に誕生したピカデリーの歴史を刻む名前になっている。団成社は現在「映画歴史館」となっている。団成社は1907年に開館し、最初の韓国映画とされる「義理的仇討」(1919)を上映した老舗中の老舗映画館だった。
ソウルの老舗映画館は次々に閉館し、もはや大手シネコンでない代表的な映画館として残るのは忠武路(チュンムロ)の大韓劇場くらいだ。大韓劇場は私が所属する大学の最寄の劇場なのでよく行くが、閑散としているのはコロナ流行前からだった。いつまで持ちこたえられるのか、不安でならない。
一方で、少し希望が見えてきたのは、今夏は韓国も1日の新規感染者数が最多を記録するほどコロナ流行は深刻だったが、そんな中でリュ・スンワン監督の「モガディシオ」、キム・ジフン監督の「シンクホール」などがヒットしている。9月2日時点の観客数は「モガディシオ」が314万人、「シンクホール」が204万人を記録し、まだ伸びそうだ。コロナ流行前の1000万人を超えるような大ヒットではないが、これらのヒットが呼び水となって、公開を延期していた韓国映画が徐々に劇場公開へ動き出している。映画館での2次感染の報告は「ゼロ」であることが報じられたのも奏功しているようだ。