鬼怒川の景観を作った地震と関東の南海上から北上する台風
栃木県の鬼怒川温泉付近は景観が美しいことで有名ですが、この景観を作るのに大きな役割をしたのが、地震と台風であるということはあまり知られていません。
地震で大きな塞き止め湖ができ、これが台風の暴風雨で決壊し、蓄えられていた水のエネルギーが巨石を動かし、現在の景観を作りました。
江戸時代の地震と台風の記録が多い栃木県の鬼怒川温泉付近
地震でも台風でも明治時代以前は、日記や記録に書かれていることから推定するより方法がありませんが、栃木県の鬼怒川温泉付近は、江戸時代の記録が他の地方に比べ豊富に残っています。
これは、近くに徳川家康を祭っている日光東照宮があることが大きいのですが、加えて、東北の雄藩である会津への交通の要衝の地で、ここに会津藩の関所「五十里(いかり)関」が置かれていました。五十里という名は、江戸日本橋から五十里のところにあったことに由来しています。
天和3年の大地震と大きな塞き止め湖
栃木県北部では、天和3年の春から地震が相次いでいましたが、9月1日(1683年10月20日)未明の大地震により山が大きく崩壊し大きな塞き止め湖を作っています。
昭和31年に男鹿川の流水を調節し、洪水防止と潅慨・発電用に五十里ダムが作られています。人造湖である五十里湖が作られたのですが、ここに海尻(うみじり)橋がかかっています。この橋のあたりが、名の示すように湖の末端となっていました。
享保8年8月の台風
海尻橋の近くの布坂山には五十里湖展望台がありますが、その一角に小さな祠があり、これが高木六左衛門の墓だといわれています。
高木六左衛門が関所の支配頭に着住してきたころ、満々と水をたたえていた湖の土手が割れるといううわさが立ったため,会津藩主から3000両をもらって排水路の工事にかかりました。しかし、3000両を使い果しても工事は完成せず、高木六左衛門は責任をとって自決しています。
排水路の完成をみないで放置された湖は、自決後1年たった享保8年8月9日(1723年9月8日)、おりから来襲した台風による大雨により湖は決壊し、下流では大洪水となっています。
排水路の工事が遠因になったのか、それが関係ないほど強い台風だったのかは、今となってはわかりませんが、決壊したことにより蓄えられていた水のエネルギーが巨石を動かし、現在の景観を作っています。
昔は,貴い奴の川と善かれていた貴奴川が,後になって鬼の怒った川と書かれるようになったということが、のときの洪水のものすごさを語っているように思えてなりません。
ただ、五十里湖大浜水のあと、男鹿川と鬼怒川の合流点付近で温泉が発見されています。五十里湖洪水のさい、山崩れで川筋が急に変わったために発見されたもので、これが現在の川治温泉です。
享保8年8月の台風と似ていると考えられる台風
享保8年の記録を調べてみると、この台風が来襲する数日前から雨が降り続いていたという記述があることから、前線が停滞して連日雨が降っていた所への台風が来襲と考えられます。また、関東地方,東北地方,北海道に関するものばかりであることなどから、関東の南海上から北上して関東地方に上陸した台風か、関東の南東海上から北西進して関東地方に上陸した台風のいずれかと思われます。そして、そのいずれも雨が一番多く降っているのは北関東です。
図2は、関東の南海上から北上した台風の例、図3は、関東の南東海上から北西進した台風の例です。
関東地方北部は、南東~南海上から台風が接近する場合は、台風周辺の気流が連なる山々によって強制的に上昇させられ、そこで大雨となりますので、特に雨に警戒が必要となります。
享保8年8月の台風から292年後の昨年(平成27年)9月、鬼怒川下流で洪水が発生し、大きな被害が発生しています。
このときの大雨は、台風の直撃ではなく、日本海にある台風18号から変わった低気圧からの気流と、三陸沖を北上している台風17号からの気流が合流して南北方向にのびる雲の帯によるものです(図4)。なお、このときの、関東北部から東北南部の豪雨は、「平成27年9月関東・東北豪雨」と命名されています。
図1~3の出典:饒村曜(1986)、台風物語、日本気象協会。