今から292年前(享保8年)の台風による鬼怒川の大洪水
鬼怒川下流で洪水が発生し、大きな被害がでていますが、今から292年前の享保8年8月9~10日(1723年9月8~9日)、下野国の貴奴川(衣川や絹川とも記された)で大洪水が発生しています。後になって鬼の怒った川(鬼怒川)と書かれるようになったのは、このときの洪水のもの凄さを物語っています。このとき、江戸も台風の直撃を受け、大きな被害が発生しています。
鬼怒川上流は江戸時代の記録が豊富
地震でも台風でも明治時代以前は,日記や記録に書かれていることから推定するより方法がありませんが、栃木県北部は、近くに日光東照宮がある関係で江戸時代の記録が他の地方に比べ豊富に残っています。また、江戸日本橋から五十里のところでり、東北の雄藩会津への交通の要衝の地、会津藩は五十里(いかり)関という関所を置いていました。
享保8年の台風
享保8年8月は東日本から北日本に風雨の記録が多く、台風が来襲する前数日から雨が降り続いていたという記述もあることから、前線が停滞して連日雨が降っていた所へ台風が来襲して大洪水になったと考えられます。また、台風は、関東地方を南から、あるいは南東から直撃するコースと考えられ(図1)、これらの場合は、特に北関東で大雨となります。昭和24年のキテイ台風は、南から北上するコースで、北関東では700mmを超す豪雨となっています。キテイ台風は、防災の日が9月1日となった理由の一つとなった台風です。
鬼怒川上流の景観を作った地震
鬼怒川上流では、天和3年9月1日(1683年10月20日)未明の大地震により山が大きく崩壊し、大きな塞き止め湖を作っています。
会津藩では、塞き止め湖の決壊を心配し、五十里関支配頭の高木六左衛門に排出路の工事を命じています。しかし、会津藩からもらった3000両を使い果たしても工事は完成せず、高木六左衛門は享保7年に自害しています。このため、布坂山(現在の五十里湖展望台)は切腹山と呼ばれていました。
昭和31年に男鹿川の流水を調節して洪水防止と濯漑・発電用に五十里ダムが作られ、人造湖である五十里湖が作られていますが、ここにかかっている海尻(うみじり)橋のあたりが塞き止め湖の未端でした。
鬼怒川の大水害
天明3年の大地震でできた塞き止め湖は、享保8年の台風によって決壊し、下流では大洪水となっています。高木六左衛門の自害の1年後のことです。
鬼怒川上流の景観と温泉に寄与
鬼怒川上流の美しい景観には、地震でできた大きな塞き止め湖が、台風の暴風雨で決壊し、蓄えられていた水のエネルギーで巨石を動かしてできたものも寄与しています。また、大洪水のあと,男鹿川と鬼怒川の合流点付近で温泉が発見されています。山崩れで川筋が急に変わったために発見されたもので、これが現在の川治温泉です。
日本は自然の恵みが豊かな国で、昔から多く人々の生活を支えてきました。その反面、自然災害の多い国でもあります。自然の恩恵をうけつつ、災害を少なくするにはどうしたら良いか、その問題に対するヒントは、今までの経験の中にあると思います。
図の出典:饒村曜(1986)、台風物語、日本気象協会。