EUはイギリスの何に怒っているのか。なぜ輸出規制をし始めたのか:アストラゼネカ社製コロナワクチン問題
イギリスと欧州連合(EU)が、アストラゼネカ社製のワクチンをめぐってもめている。
問題は、それほど複雑ではない。イギリス側の報道を見るので話がややこしくなるのであり、EU側の説明を聞けば、問題の核心と枝葉の部分をすぐに分けて理解できるようになると思う。
EU側の怒りを一言でいうのなら「アストラゼネカ社側の契約違反」である。それだけだ。加えて、イギリス政府への不信(と同情)がからんできている。『ル・モンド』の記事とAFPの記事を中心にお伝えする。
(後述:その後しばらく経って、欧州側の報道がはっきりと「EUが怒っているのは、同社がEU内でつくられたワクチンを、こっそりイギリスに送っていると見ているからだ」というようになってきた。一般的には人々は「同社の英国内の工場でつくられたワクチンを、英国で使うのはわかる。仕方がない」と思っているように感じる。でも、EU内の工場でつくられたワクチンとなると、話は別だ。詳しくはこちらのリンクで)。
イギリス側の一方的な契約違反
物語は、2020年8月から始まる。
欧州委員会とアストラゼネカ社(イギリス&スウェーデンの会社)は、ワクチンの成功が証明された場合、EUは同社から4億用量を購入することを約束する契約に署名した。
EU側はさらに、生産能力の向上を支援するために、3億3600万ユーロ(約427億円)を同社に支払うことを約束した。
契約書は、複数の工場に言及している。英国に2つ、欧州大陸に2つ(ベルギーとオランダ)、5つ目は問題が発生した場合に稼働できる米国の工場である。
その上で、注文の発注と支払いは加盟国次第となっている。
ところが今年1月17日、アストラゼネカ社は一方的に、2021年第1四半期に予定していたEUへの納入を大幅に削減すると発表した。
欧州筋の計算によると、これは契約によって権利があると考えられていた億単位の用量の、わずか「4分の1」にすぎない。
イギリスでもワクチンが足りていない状況ならともかく、同国でのワクチン投与は1月14日から薬局や小さな店舗でも行われ始めているのだ。
奇妙な「3カ月」理論
1月26日、欧州の複数の日刊紙とのインタビューで、アストラゼネカのCEOは、問題の契約について奇妙な解釈を示した。
「英国との契約は、昨年6月に締結された。EUとの契約の3カ月前だ」、「だから英国のサプライチェーンからの供給は、まず英国に行くと規定した」と言ったのだ。
加えて、イタリアの日刊紙『ラ・レプブリカ』の報道によると、CEOは「EUは英国に3カ月遅れて契約したが、多かれ少なかれ英国と同じ量を望んでいるのですね。最善をつくすと言いましょう。ただし、契約で規定されているわけではありません」と述べたということだ。
これに対して、欧州委員会は猛反発。翌日27日には、3カ月後の契約だからといって、供給が悪い理由にはならない、供給は同社とEU幹部が締結した契約書に規定されている、と主張した。
英国の工場は契約の一部であり、だから「EUが予約した用量」を提供しなければならない、とEU保健・衛生担当委員(大臣に相当)ステラ・キリアキデスは訴えている。「会社が約束を守らなくてもいいという考えは正しくもないし、受け入れられるものでもありません」
「アストラゼネカの説明は納得できない。1時間ごとに言っている事が異なる」と欧州高官はイライラしている。
業を煮やした欧州委員会
1月27日、ベルギー連邦医薬製品庁は、状況を評価するために、同国内にあるアストラゼネカの工場に専門家を派遣した。
今後、欧州委員会は、ワクチンの輸出を認可するメカニズムを設定する(4月にマスクで行われたことに沿う形となる予定)。
目的は一つだ。欧州向けに欧州で生産された用量が、他の所に行かないようにすることだーーこれが数日後に「EUの輸出規制」として批判されるものになるのだが。
「最近、EU(欧州)から多くのワクチンが輸出されていることがわかっています。しかし、誰によって行われているのかはわかりません」と、ある関係者は言う。
そして欧州委員会は、大変厳しい態度でイギリスに臨んだ。EUがイギリスよりも供給が悪くなる理由はなく、必要であれば、アストラゼネカは英国で生産されているものを大陸に輸入するだけでよいのだ、と。
失われている信頼関係
二者が喧嘩している場合、すっきり原因を説明できるほうに理があり、ぐちゃぐちゃ何を言っているかわからないほうは防御側であり、どこかやましいところがあると、大抵相場が決まっている。
イギリス側の言い分は、支離滅裂に見える。同国内では、イギリス側のほうがワクチンに値段を高く払っており、EU側が安いとまで言い出しているが、そんなのは契約の履行に関係ない。それに、EUは大量に買うから安くなったのだ。ましてやEUは生産性の向上のために、約427億円も出しているのだ。
「イギリスは3カ月早く契約した」の言い分も、どうしてそれが契約内容に影響を与えるのだろうか。3カ月早く内定をとった学生は、3カ月早く入社するのか。規定が「4月入社」なら、いつ内定をとっても同じである。すべては契約書の内容次第だ。「早く契約したもの勝ち」は、意味不明である。
ただ、やましい側(?)にも一定の言い分があるものだ。
このような事態が起こった最大の原因は、イギリスで変異株が発見され、大勢の新たな患者が出たこと。そして、同国は世界中からバイ菌扱いされて、交通が遮断されて孤立しまったことだろう。これは辛い。
だからこそ、ワクチン普及に全力を尽くそうとした。国民の安全を守り、ワクチンによって希望をもたせるだけではなく、対内・対外的にも、ワクチンを次から次へと投与するその様子をメディアに見せて、大体的に派手に宣伝する必要があったのだ。
その様子を見て、イギリスから来た変異株に悩まされ始めている欧州側は、「イギリスではどんどんワクチン接種が進んでいるのに、こちらにはまわってこない」「契約を守れ」とイライラを募らせたというわけである。
コロナ変異株に、EU離脱に伴うトラブル、スコットランドの独立問題と、イギリスは客観的に見て、集団ヒステリー状態一歩前にあるようにみえる。市民はよく耐えて頑張っていると思うし、ジョンソン首相もタフに頑張っているなと感心はする。
問題は、EUとイギリス(特にジョンソン首相)との信頼関係が、ブレグジットとその交渉を通じて失われてしまった事だろう。
本当に生産の問題でワクチンが足りないのか、ボリス・ジョンソンがイギリスの工場からEUへの輸出を禁止しているのか、これは法的な問題なのか(それとも政治問題なのか)、EU側はもはや疑心暗鬼だといって良いだろう。
「いずれにしても、我々は多かれ少なかれ、協調のための武器を複数持っている」と欧州外交官は述べたという。
同27日、1日中EU側からは多くの声明が発せられたが、イギリス側では、アストラゼネカが同国に週200万用量(合計では1億用量)を供給するという約束を果たすだろう、と表明した。ジョンソン首相は「我々は供給に非常に自信を持っており、契約にも非常に自信を持っている。その上で前進している」とコメントした。
その日の夜は、欧州委員会と27加盟国代表、そしてアストラゼネカのCEOが会議を開いた。CEOは、前日の夜には参加しないことを関係者に伝えていたにもかかわらず、結局参加した。しかし、問題を明確にするのには、何の役にも立たなかったという。
からみあう、複雑な背景
もっとも、単純にイギリスとEUの争いとは言えない複雑な事情や背景がある。
アストラゼネカCEOはイギリス人ではなく、フランス人である(お疲れ様です・・・)。
北欧最大級の製薬会社であったスウェーデンのアストラ社が、1999年にイギリスのゼネカ社を買収・合併してできた会社である。
それと、以前はEUの欧州医薬品庁(EMA)はイギリスにあった。このことは、合併によるアストラゼネカ社誕生と、本部をイギリスに決定したことに、大いに関係があるに違いない。
しかし、イギリスのEU離脱に伴い、欧州医薬品庁は2019年にオランダに移転した。そのため、イギリスにあった欧州中の関連企業や団体も、ごっそりオランダに移転、このあたりも今後の展開に影響するかもしれない。
実際、もしハード・ブレグジットだった場合、研究や製造をイギリスから遠ざける計画を、スウェーデン人会長は立てたという。
ちなみに、2014年、ファイザー社はアストラゼネカ社を買収しようとしていたことがある。イギリスの政治家や科学者の反対もあり、結局、実現しなかった。
最高品質より量
前述の欧州医薬品庁(EMA)は結局、アストラゼネカのワクチンをこの騒ぎの後、1月29日に承認した。
65歳以上の人に対する効果について、疑問視する声がすでに出ていたが、いまいっそう強まっている。
「アストラゼネカが選ばれたのは、その生産能力に基づいています。当時まだ仮説にすぎなかったワクチンの現実に対してリスクを取ったのであり、生産能力ではありません。だからアストラゼネカは、合意された用量を生産しなければならないんです」と、キリアキデスEU保健・衛生担当委員は主張した。
「アストラゼネカは、我々が期待していた最初の大量ワクチンだった」と、欧州情報筋はいう。そして、アストラゼネカの研究所の開発が遅れているにもかかわらず、それでも契約したのは、ヨーロッパで行われている予防接種キャンペーンに大きな弾みをつけることを期待していたのだという。
要するに、アストラゼネカとの契約は「現段階の最高の品質より量」を選択した結果だというのだ。温度管理など、製品の扱いがアストラゼネカ社製のほうが簡単なことも含んでいる。
続く両者のケンカ
この問題は、北アイルランド問題にも飛び火した。今後、英国の統一問題に、影響を及ぼすかもしれない。これからも欧と英のケンカは続くだろう。
つくづく島国というのは、外界から遮断しやすくて、引きこもることで保護が簡単と思える一方で、閉じこもった島国内で何かひとたび問題が起こると、心理的にも物理的にも極限状態におちいりやすいのだなあと、見ていて思う。まったく他人事ではない。日本人としては、鏡を見ているかのようだ。
ワクチンに関しては、日本としては、これはEUとイギリスのケンカなので、「ワクチン・ナショナリズム」と過剰に反応する必要はないと思う。イギリス発の一部報道を鵜呑みにすると、おかしなことになり判断を誤る。ただし、これからの注意と警戒は必要だろう。
そもそも「EUのナショナリズム」なるものを心配するとは、筆者に言わせれば「何ですか、それ」である。そんな心配が必要なら、地球軍の侵攻も心配する必要があるだろう。
もっとも、歴史の描写というのはほぼすべて「後付け」なので、後々になってこれが「コロナ禍の、あの時からEUのナショナリズムが始まった」と描く事件になるかもしれないが。