マツコ・デラックス、コロナ禍のテレビ論 マツコはなぜテレビでテレビを語るのか
昨年来のコロナ禍は、テレビ番組にも小さくない影響を与えたように見える。
ソーシャルディスタンスの確保や出演者数の縮小、無観客での収録などが常態化し、その影響は71回目を迎えた『NHK紅白歌合戦』(NHK総合)の演出にまで及ぶこととなった。また、ステイホームの奨励とともに芸能人のYouTube進出が拡大し、Netflixの配信動画が話題になる機会も確実に増えた。それ以前から進んでいたテレビの相対化を、コロナ禍はさらに加速したようにも見える。
そんなコロナ禍の中、これまでテレビについて厳しい批判も含めた多くの発言を残してきたマツコ・デラックスも、改めて独自のテレビ論を語った。果たしてマツコは何を語ったのか。その内容を振り返りながら、そもそもなぜマツコはテレビでテレビを語るのかを考えてみたい。
マツコ、コロナ禍のテレビ論
まず、自粛期間中に若い人気YouTuberの動画をまとめて見たというマツコは、「意味探し」に拘泥するテレビ関係者を(自分自身への自虐を含めて)批判的に語る。YouTubeでは「意味」ではなく「勢い」や「空気感」が評価されているという気づきからだ。
では、テレビに若い出演者をたくさん出せばいいのか。そうではないとマツコは言う。見た目を変えても、中身が変わらないと意味がない。いわゆるお笑い第7世代がテレビで引っ張りだこになっている状況について、マツコは百貨店の紙袋に例えて語る。
フワちゃんのテレビ番組での扱われ方についても、次のように指摘する。
では、どうすればよいのか。これからのテレビに必要なことのひとつは、番組製作者の人材育成・登用の見直しだとマツコは語る。紙袋や包装紙ではなく中身を変えなければいけないという持論と符合する、具体的な提言だろう。
他方で、マツコはテレビの”終末”も予兆した。
スタジオ入口に置かれたアルコール消毒液で手を除菌しながら、マツコはそうつぶやいた。そこには、自虐も少なからず含まれているはずだ。『夜の巷を徘徊する』と題した散歩番組でありながら感染症対策のためロケをせずに、この日はスタジオでGoogleストリートビューを見る、そんな状況に対する自虐だ。自身のキャラクターに合わせて選ばれた厭世的な言葉かもしれない。
が、そうだとしても、刺激的な言葉であることは確かだろう。
予期せぬ疫病で変化を加速させられているように見えるテレビ。そのテレビの中で、マツコは今あるテレビとは別のテレビのあり方を繰り返し語った。その議論は一方で製作者のキャリアパスに及び、他方でテレビの”終末”にまで及ぶものだった。
マツコはなぜテレビでテレビを語るのか
しかし、なぜそもそもマツコはこんなにもテレビについて語るのか。
テレビの外部から突然やってきたマツコは、当初は元雑誌編集者、コラムニスト、女装家などさまざまな肩書きで呼ばれていた。が、「自分を作りあげたものの8割ぐらいはテレビだと思ってる」と自身が語るように(『おしゃれイズム』日本テレビ系、2014年11月23日)、何よりも大のテレビ好きだった。
だからだろう。マツコの口からは他のタレント以上に、テレビへの愛が反転したような批判がこれまでも飛び出してきた。
そんなマツコは自身について、テレビの変革期に求められたタレント像に合致した存在だったと自己分析する。
視聴者がテレビに対して「夢」を見ていた時代は終わった。そんな視聴者の覚めた目線は、時に「やらせ」批判として噴出した。テレビの変化が求められるそんな時期だったからこそ、テレビ内のルールを知らない自分のような外部の存在が重宝された。マツコはそう語るが、テレビの夢から覚めたテレビ外部の視聴者の目線をテレビ内部にうまく繰り込みエンターテインメントに出来たところに、自身の需要があったということだろう。
たとえばこんなシーン。目の前に並べられた品物の中から視聴者プレゼントを選んだマツコは、カメラに向き直って視聴者にこう言った。
視聴者から批判されがちなテレビの”お約束”、それを先回りして指摘し「嫌なところです」とまとめる。マツコはしばしばこのように、テレビに対して視聴者目線のツッコミを入れることで笑いどころを作る。と同時にそれは、テレビそれ自体がマツコを依り代に自虐的にボケているようでもある。
いずれにせよ、大のテレビ好きとしての出自、そしてテレビの外部の視線を内部に繰り込む役割、その交点でテレビの上に結ばれた像が、テレビでテレビを語る「テレビタレント、マツコ・デラックス」であったはずだ。その言葉は、テレビの変革期に求められた。だからだろう。コロナ禍で加速しているように見えるテレビの変化に際し、マツコの言葉はテレビの”終末”の予兆にまで加速していく。それはテレビそれ自体の自虐の臨界とも言えるのかもしれない。
もちろん、テレビ好きとしてはその予兆が外れることを願うのだけれど。そして何よりも、自身の刹那とテレビの刹那が時に共振するその人の予兆を、どこまで真正面から受け止めればいいのかはわからないのだけれど。