『笑っていいとも!』(フジテレビ系)が終わって10年が経つ。2014年3月31日、「グランドフィナーレ」を冠した特別番組が放送され、約32年続いた同番組は幕を閉じた。
『いいとも』については、終了直後ほどではないが、いまでもときどき振り返られることがある。『ラヴィット!』(TBS系)や『ぽかぽか』(フジテレビ系)が、『いいとも』にたとえられたりする。いま『いいとも』があったらレギュラーは誰になるのかを考える企画の動画が、YouTubeで配信されたりする。先日、『いいとも』が生放送を行っていた新宿アルタが2025年2月末で営業を終了することが報じられたが、その際もやはり、『いいとも』を懐かしむ声がSNS上にはあふれた。
では、『いいとも』は内側からはどのように見えていたのだろうか。内側にいる者にとって、どういう番組だったのだろうか。『いいとも』を振り返る元レギュラーたちの声を中心に、振り返ってみたい。
浜田雅功「(松本が)何言ってもウケへんっていうか」
『いいとも』にレギュラー出演することは、ある時期から、芸能人にとって一種のステータスだった。多くの者にとって番組に毎週出ていることは、”売れている”ということだった。
ただ、『いいとも』の観客は一筋縄ではいかない存在だった。なぜなら、アルタの客席に座る人たちは、ある意味で”世間”だったからだ。一部の芸人にとっては、自分がこれまで相手にしてきた客層とは大きく異なっていた。
だから、なじめない人は、なかなかなじめなかった。あえてなじもうとしないスタンスを示す人もいた。出演しながら違和感を覚えていた人もいた。
明石家さんま「世間が思ってるよりガッツポーズしたね」
もちろん、そこが世間への窓だったとするなら、世間にあわせて自分が変わるだけでなく、自分のやりたいことをやって世間を振り向かせるというベクトルもあり得るだろう。典型的には、明石家さんまにとっての「雑談」がそうかもしれない。
平日の昼間に、毎日同じ時間に生放送されていたということ。その同時性を伴った反復性からくる影響力は、根深く世間に浸透する。良くも悪くも。
渡辺直美「一番すごく感謝してますね、『いいとも』には」
もちろん、『いいとも』は認知度の高い人気者ばかりがレギュラー出演者になったわけではない。抜擢と呼べるような起用も多くあった。いいとも少女隊として出ていた渡辺直美も、その1人である。
渡辺にとって『いいとも』のレギュラー出演は、広く世間に知られるきっかけになっただけではない。そこは、世間が渡辺を見る目に幅をもたせてくれた場でもあった。
一方、そこでついたイメージに縛られてしまうケースもあった。ウエストランドもまた、M-1チャンピオンになるはるか前、世間にほとんど知られていない時期にレギュラーに抜擢された1組だった。
ただ、まだ売れていないにもかかわらず、売れた風に見られる場に出るようになってしまったこと、いわば”テレビの人”になってしまったことは、当時まだライブシーンを中心に活動していた彼らの振る舞いを難しくしていく。
若林正恭「CM中にタモリさんに、『オマエいいともバカにしてるだろ』って言われて」
そんな『いいとも』は、新人・ベテラン、有名・無名、いろいろな芸能人が行き交う場だった。レギュラーには、タレント、芸人、歌手、俳優、文化人など多様な人が起用された。そこには、さまざまな交流が生まれた。
ハライチの澤部佑は、憧れの先輩との共演について振り返る。
芸能人の交差点としての『いいとも』。その交差点の中心にはタモリがいた。グランドフィナーレのスピーチで、笑福亭鶴瓶はタモリを「港」にたとえた。さまざまな人がやってきて、とどまり、また出発する場としての港。そんな『いいとも』のタモリに関するエピソードには事欠かない。
あの「お昼『笑っていいとも』をみながら食べたっていう思い出があったのね」
『いいとも』はさまざまな人が行き交う交差点だった。それは、視聴者にとっても同様だったのかもしれない。一般人参加のコーナーに、まだ素人時代の芸能人が出ていたというエピソードも多い。コーナー出演を機に、芸能人として活動をはじめた人もいる。めずらしい例としては、こんなケースもある。
もちろん、出演するだけではない。私たちは視聴者として、それぞれの位置から『いいとも』を見ていた。ラジオからの引用になるが、あのは、視聴者としての『いいとも』の思い出を語った。
学校を風邪で休んだときに見ていたテレビ。午前中の講義に出ず昼頃に起きたときに映っていたテレビ。仕事の昼休みに入った定食屋で映っていたテレビ。昼食をつくっているときにリビングで流れていたテレビ。私たちの生活には、『いいとも』があった。生活のなかに『いいとも』があることを、了解し合っていた。それは「私」の経験でありつつ、「私たち」の経験だった。
いま『いいとも』が続いていたらレギュラーは誰にになるか、そんなことを考えるテレビの企画のなかで、佐久間宣行は感慨深げに語った。
共有体験としての『いいとも』。翻って考えれば、その後のテレビは、より個人的な経験になっていったのだろう。見る番組を選択するだけではない。テレビを見ること自体が、選択の対象になっていった。もちろん、『いいとも』が放送されていた時期にも、そんな傾向はあった。むしろ、『いいとも』の終わりは、テレビの共有体験の機能、いわば公共性が弱まっていったなかで起こった出来事のひとつだったのかもしれない。
そういう意味で、やはり時代のひとつの区切りではあったのだと思う。