松本人志が不在の『IPPONグランプリ』でフリップを使わない王者が誕生した意味について考えてみた
チェアマン”代理”バカリズム
性的行為の強要疑惑を報じられている松本人志(ダウンタウン)が、裁判に注力するためという理由で活動休止を発表したのは今年の1月8日。本記事の執筆時点で、そこから1か月近くが経とうとしている。松本がレギュラー出演していた番組は、すでに松本不在の放送に切り替わりはじめている。
そんななか、今月3日、『IPPONグランプリ』(フジテレビ系)が放送された。同番組は、松本が”チェアマン”という立場で出演していた大喜利番組だ。松本は定期的に放送される大型特番のレギュラーも多く抱えていたが、今回の『IPPONグランプリ』はそれらの特番のなかで最初に松本を欠いた形で放送された番組となった。
今回、チェアマンの”代理”を務めたのはバカリズムだ。番組初回から回答者として出場し、出場回数は27回(出場しなかったのは第2回と今回のみ)。優勝は歴代最多の6回、準優勝は5回におよぶ。松本以外に『IPPONグランプリ』の”顔”を務められるのは、バカリズムをおいて他にはいないだろう。
そんなバカリズムは番組の冒頭、松本の不在に次のように触れた。
こうして放送がはじまった『IPPONグランプリ』だが、冒頭のバカリズムのコメント以外は、松本の存在あるいは不在を匂わせる演出はなかった。そして、番組自体はいつもと同様におもしろかった。
大喜利=フリップからの解放
今回の『IPPONグランプリ』で印象的だったのが、秋山竜次(ロバート)の優勝の仕方である。最終決戦の最終問題、「今アナログテレビをつけるとどうなってる?」というお題に、秋山は次のように答えた。
その後も秋山は「終わってんの。終わってんの」などと、謎のおじさんに”憑依”するような口調で言い続けた。顔と言い方で押し切ろうとする秋山。その様子もおもしろく、芸人審査員から満票を獲得して優勝したわけだが、このとき秋山はフリップをまったく使わなかった。
以前から秋山の大喜利は、フリップに何か書いて出すものの、なくても成立するような回答が多かった。大喜利という設定に乗っているという形を示すためだけに、フリップを出していたと言ってもいいかもしれない。
今回の優勝を決めた回答でも、秋山は答える直前までフリップに何かを書いていたので、用意はしていたのだろう。が、しゃべっているうちに書いている内容と違ってきてしまったのか、回答している途中でフリップを出さないほうがウケると感じとったのか、それとも単に出すタイミングを逸したのか、理由はよくわからないが、とにかく秋山は用意したフリップを使わなかった。
そのような勝ち方で優勝した秋山について、チェアマン代理のバカリズムは「IPPON史上初じゃないですか? 書き問題でフリップ使わないっていう」と語った。
松本人志という文脈
そもそも、諸説あるものの、大喜利=フリップという形が定着したのは松本の影響が大きいとされる。『笑点』(日本テレビ系)を見ればわかるように、もともと大喜利にフリップは必須のアイテムではない。松本は、自身が番組の企画構成も務めるようなテレビ番組で、フリップを使った大喜利を繰り返し披露してきた。それが広まり、大喜利にフリップを使う文化が定着したと言われる。
写真でひと言についても、大喜利の型として定着させたのは松本だとされる。その意味で、現在の主流の大喜利の型を定着させてきたのが松本だったと言ってよい。そのような経緯があるからこそ、松本は主宰者的な立場で『IPPONグランプリ』に出演してきたわけだ。
しかし今回、『IPPONグランプリ』の松本不在の回で、ロバート・秋山がフリップを使わずに優勝した。松本が大喜利=フリップを定型化したことをふまえると、なんだか感慨深い。
ーーと言いたくなるわけだが、もちろんこれはあくまでもよくできた偶然だ。偶然以上のなにものでもない。しかし、無意味な点と点の間を線で結んで、意味や物語を見出したくなってしまうのが人の認知というもの。大喜利=フリップを定着させた松本がいないことと、大喜利からフリップを切り離した秋山の優勝を、結びつけたくなってしまう。
お笑いに限らず、私たちはすべての表現と呼ばれるものを何らかの文脈の上で理解する。現在のお笑いについていえば、その文脈には松本の影響が深く織り込まれている。だからこそ、過剰に物語を読み込んでしまうのだろう。
もちろん、時間が経過するなかで、お笑いを見る際の文脈は少しずつ変化していく。1990年代初頭より、30年近くにわたってテレビのなかで活躍してきた松本。そんな松本がいないテレビが、これからいよいよ当たり前になってくる。それがいつまで続くのか、そもそも復帰があるのかすら、現時点ではよくわからない。
いずれにせよ、そのなかで変わるものがあるだろうし、変わらないものもあるだろう。もちろん、テレビで放送される番組の中身が変わったり変わらなかったりするだけではない。テレビを見る側の視線もまた、どう変化するのかしないのか。テレビの画面の向こう側とこちら側に、目を凝らし耳を澄ます日々が続く。