『キングオブコント2024』お笑い賞レースにおける審査員の"好み"を考える
2024年の『キングオブコント』(TBS系)は、ラブレターズの優勝で幕を閉じた。同大会の初回から出場し、決勝へは5回進出。審査員を務める秋山竜次(ロバート)や、じろう(シソンヌ)が優勝した際も、ラブレターズは決勝の舞台に立っていた。今回の決勝進出者のなかでは、もっとも”悲願”という言葉で優勝が受け止められやすいコンビだったかもしれない。芸人やメディア関係者、お笑いファンからの祝福の声も大きい。ラブレターズはもちろん、他の芸人たちのネタもおもしろく、今年も視聴者として大いに笑った決勝だったことは言わずもがなだ。
一方で、今回は松本人志(ダウンタウン)が初めて決勝の場にいない『キングオブコント』だった。2014年(第7回)まではMCとして、2015年(第8回)からは審査員として出演していた松本は、大会の”顔”だったと言っていい。そんな松本の不在がひとつの話題になるのはもっともなことだ。
が、すでにいくつも出ているであろう松本不在に関する記事を、これ以上増やす必要ももうないだろう。初めての状況下でも番組としての『キングオブコント』決勝が”いつも通り”に進んでいたように見えたのは、大会のもうひとりの”顔”、浜田雅功(ダウンタウン)による”いつも通り”のMCにあったはずだ。ただ、ここではちょっと別のことを考えよう。お笑いの賞レースの審査に審査員の好みが反映されることについて、である。
トレンド入りした「審査員の好み」
こんな場面があった。ニッポンの社長の審査結果が出て、ファーストステージ敗退が決まったとき。結果を見た辻皓平(ニッポンの社長)が、「まぁまぁまぁ……ま、これは審査員さんの好みなんで」と言った。この場面、辻の発言の直前で、会場の雰囲気が一気に沈んでしまっている。場の空気をこれ以上沈ませないための、気圧を抜くような発言だったのだと思う。
ただ、Xを中心にこの発言が審査員批判のように受け取られている面があるようだ。また、ニッポンの社長のネタに低い点数をつけた東京03の飯塚悟志をはじめ、審査員らが個人の”好み”で審査しているのではないか、と批判する向きも散見される。「審査員の好み」はXでトレンド入りした。
今回のニッポンの社長のコントは、守備も打撃も投球もうまいが声が小さすぎる野球部員に対し、監督が「お前声ちっちゃいんじゃ!」などとバットで次々と殴りつけ、それがどんどんエスカレートして周囲のベンチやウォータージャグなども破壊されていき――というような、反復される狂気とバイオレンスが笑いにつながるネタだった。もちろんバットも周囲のセットも壊れやすい素材で作られたダミーだ。
そんなコントに対し、飯塚は「野球うまいのに声小さいっていうボケはめちゃめちゃ好きだし、めちゃめちゃおもしろいと思うんですけど」と前置きしつつ、「僕的には、セットが壊れるように作ってある…ああいうのは、同じおもしろさだったら、ないほうが僕は好きなので、っていうふうになってしまいましたね」とコメントしたのだった。このあとに審査コメントをした小峠英二(バイきんぐ)が、「僕は飯塚さんとは逆で、どんどん椅子とかが壊れていくのがおもしろかったですね」と、飯塚と逆の評価をしたことも、審査に個人の”好み”が反映していることへの批判を呼び込んでいる面があるかもしれない。
芸人たちが語ってきた審査と”好み”の関係
ある時期から、お笑いの賞レースはネタだけでなく審査員にも焦点が当たるようになった。審査に対する異議がネット上で散見されるようになり、SNSがそれをさらに加速させた。”審査員を審査する”ような状況が可視化されてきた。そんな視聴者の視聴スタイルに呼応するように、番組側も審査員の点数やコメントを見どころのひとつとして演出してきた面があるように感じる。
そんななか、芸人たちがお笑いについて語るテレビの企画のなかでも、賞レースの審査員についての話が散見されるようになった。そこでひとつのテーマに挙げられやすいのが、笑いの審査と笑いの”好み”の関係である。お笑いのような客観的な評価基準を立てることが難しい分野でコンテストが行われる際、そこにはある程度、評価者の個人的な”好み”が反映されてしまうのではないか、といった話だ。
たとえば、『THE W』(日本テレビ系)などで賞レースの審査員を務めてきたアンガールズの田中卓志は、「好みはある程度出していいと思う」と言い、その理由を次のように述べる。
あるいは、『キングオブコント』で審査員を務める東京03の飯塚悟志も、お笑いの賞レースの審査について次のように言う。
お笑いだけでなく、他のエンタメのコンテストでも似たような問題はあるのだろう。もちろん、審査員の”好み”をできるだけ排して客観性を担保するために、基準をきっちりと決めて対応するような分野もある。しかし、お笑いの場合、それまでの笑いの基準をひっくり返すことが評価される場面が度々ある。たとえば、スピーディーで”手数”が多い漫才が評価されていたように見えた2000年代末のM-1で、異常なまでのスローテンポで展開するスリムクラブがうねるような笑いを客席に生み、審査員からも高く評価されたように。
では、個人の”好み”を全面に出して採点してもよいのかとなると、そう簡単にはいかない。賞金も出る。芸人の一生が左右される。そして奔放な採点はSNSで批判される。さて、どうするか。
芸人たちがテレビでしてきた審査に関するトークの落とし所は、次のようなものではなかったか。レベルの高低を判断する基準はありつつも、最終的には個人の好みになる。目の前で披露されるのは決勝まで残ってきたネタだ。当然すべてのネタがおもしろく、高いレベルのものがそろっている。客観的な判断が簡単にできるようなレベルの低いネタは、そもそも決勝の舞台に上がってこない。そのうえで順位をつけるとなると、何らかの基準に沿って判断しつつも、最終的には個人の”好み”がある程度反映されてしまう。そして、そういう”好み”が複数の審査員のあいだで散らばっていれば、公平な審査は担保される――。
芸人たちがテレビのなかでフォーマルに(あるいはインフォーマルな場で)語り合うなかである程度共有されてきた、審査と”好み”の関係についての規範のようなもの。飯塚の「やっぱり好みになっちゃうから、どうしたって。全部おもしろいなかで、順位を決めなきゃいけないってなると」という見解も、そして辻の「審査員さんの好み」という発言も、そんな文脈のうえで理解されるものだろう。これらの発言の前提には、決勝に上がってきている時点ですでに高レベルのネタである、という言わずもがなの評価がある。2人とも、その続きの話をしている。このあたり、自身の”好み”を口にする審査員への批判がSNSなどで生まれてしまうのは、「笑いは最終的には個人の好み」という話が、繰り返されるうちに「そもそも笑いは個人の好み」にズレながら受容されがちなことによる不幸があるようにも思う。
飯塚がさらに語っていたこと
飯塚の先の「やっぱり好みになっちゃうから、どうしたって」という発言には続きがある。彼は東京03のネタを作る際に決めていることがあるという。心の声を音声で入れない、ネタ中に暗転はできるだけ入れない、自分たち以外の透明な誰かが舞台上にいることにして話を進めない、といった縛りだ。そんな自分のなかのネタの基準がはっきりあるからこそ、審査員として点数をつける際に同じぐらいのレベルのおもしろさのネタが複数あった場合は、「自分のなかでこれはやりたくないっていうことをやっていないほうが、どうしたって」点数が高くなってしまう。彼はそう語っていた(『今夜ファミレスで』日本テレビ系、2024年9月27日)。
飯塚はニッポンの社長のコントを、「同じおもしろさだったら、(セットが壊れるように作ってあるといったことは)ないほうが僕は好きなので、っていうふうになってしまいましたね」と講評した。確かに、東京03のコントにセットのギミックはほとんどない。彼が語っている内容は、一貫していると言えるだろう。なるほど、それはある意味で”好み”だが、一貫した”好み”である。そこにはブレの小さい「東京03の飯塚悟志」という基準がある。
「好みを超えるぐらいのレベルまでいかないとダメなんじゃないのか」
さて、ここまでは、一定のレベルを超えると”好み”の判断になってくる、という話だった。しかし、さらにその先もあるのかもしれない。一定のレベルまでは”好み”の話になるが、さらにその先には個人の”好み”を凌駕する高いレベルのおもしろさがあるのかもしれない。それこそ、笑いの基準自体をひっくり返すおもしろさが。
実は、飯塚もそのことについて語っている。確かに最終的には自分のなかの”好み”に照らして審査をするが、その”好み”から外れるネタはすべて低評価になるかというとそうではない、と彼は言う。
あるいは、別の芸人も同様のことを言う。「最近結構、芸人とお酒飲んでるときにね、笑いってレベルなのか好みなのかみたいな話をたまにするんですよ」「いろいろ考えていくと、好みを超えるぐらいのレベルまでいかないとダメなんじゃないのかっていう」「その下ぐらいだと好みでわかれてしまう」――。
飯塚と共鳴するこの言葉。誰のどこでの発言か。松本人志の『ワイドナショー』(フジテレビ系、2015年3月22日)での発言である。別のことを考えていたはずだが、結局、松本の話になってしまった。