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菊地直子・元オウム信者が拘置所の面会室で私に語ったこと

篠田博之月刊『創』編集長
逮捕直後の菊地直子被告

「極度のマスコミ不信だったのです」

「走る爆弾娘」と呼ばれ、17年間の逃亡生活の末に2012年6月に逮捕された菊地直子・元オウム信者は、東京拘置所の女性収容者専用の2階の面会室で、初めて接見した時にそう語った。拘置所での生活はそれほど不便もないと淡々と語る彼女だが、日々のニュースは一応把握しているとはいえ、いまだにマスコミ報道には不信感が強く、積極的に見ようという気になれないという。自分の事件についての報道も、逮捕されてしばらくは見てもいなかったという。

それが、自分も報道に真正面から向き合わねばいけないと思うようになったのは、拘置所で『創』を読み、昨年末、拙著『生涯編集者』や、そこで紹介されていた故・三浦和義さんの本などを読んだのがきっかけだったという。その後、自分について書かれた週刊誌の記事などを全て読むことを決意し、この春から、誤った報道に対しては抗議をしていくことを決めたのだという。

彼女の話では、それらの報道には相当の間違いがあったという。例えば彼女がオウム真理教に入信するきっかけが、陸上選手として練習中にケガをしてヨガ道場に通い始めたことだったというマスコミの通説も、事実とは違うのだという。逮捕直後に週刊誌が書きたてたいわゆる「菊地ノート」についての報道も、警察について書いた記述が、何と平田信・元信者のことだとされていたり、想像していたとはいえ、あまりにひどい内容に意気消沈したそうだ。

そうやってマスコミに向き合うように姿勢を改めた彼女と、私が手紙をやりとりするようになったのは、今年5月のことだった。以降、手紙のやりとりと接見を続け、この7月7日に発売された『創』8月号に彼女の初めての手記が載ることになった。いっさいマスコミの取材を拒否してきた彼女が、初めて自分の訴えを社会に発信したものだった。

その中で彼女は、自分が指名手配され、マスコミで「走る爆弾娘」と言われるようになったことを自分でどう受け止めていたのか、次のように書いている。

《私に地下鉄サリン事件の殺人・殺人未遂容疑で逮捕状が出たのは平成7年(1995年)5月16日のことです。地下鉄サリン事件が起きたのは、同年の20日のことです。事件が起きた直後、教団への強制捜査がせまった為に私が林泰男さんと逃走を始めたとか、八王子市内のマンションで潜伏していたなどの報道が一部でされていますが、それは正しくありません。逮捕状が出る直前まで、私は強制捜査の行われている山梨県上九一色村のオウム真理教の施設内で普通に生活をしていました。こんな事件を教団が起こすはずがないと思っていた私は、この騒動も直に収まると考えていて、まさかその後自分に逮捕状が出るなど夢にも思っていなかったのです(逃走生活が始まってからも、しばらくの間、私は地下鉄サリン事件は教団が起こしたものではないと信じていました)。

林泰男さん達との逃走が始まったのは、逮捕状が出た直後の5月18日のことです。逮捕状が出る直前に中川智正さんに東京都内に呼び出されていた私は、5月17日に都心の某マンションに行くように中川さんから指示をされました(中川さんはその指示を出した直後に逮捕されてしまいました)。マンションに一晩泊まった次の日に林さんがやってきました。お互い相手の顔と名前は知っていましたが、話をしたことはありません。

「じゃあ、行こうか」

と林さんに声をかけられ

「どこに行くのかな?」

と思いながら、彼と一緒にマンションを出たのが、17年にわたる逃走の始まりとなりました。》

《逃走が始まったばかりの頃は、突然身に覚えのないことで全国指名手配になるという、あまりにも非日常すぎる状況に、現実が現実として感じられず、まるで映画の世界の中に迷い込んでしまったかのように感じた記憶が残っています。

しばらくして、TVで私が「走る爆弾娘」と呼ばれるようになりました。自分が地下鉄サリン事件で指名手配になった時もそうでしたが、全くの寝耳に水の出来事です。上九一色村にいた時に、中川さんに頼まれて八王子のマンションに薬品を運んだことがあったのですが、それが爆弾の原材料として使われたらしいということにこの時初めて気が付きました。》

彼女は現在、東京高裁で係争中だが、争点になっているのは、都庁小包み爆弾事件に関して、教団にいた時に指示されて運んだ薬品が爆弾に使われたということについて、彼女がそれをどの程度認識していたのかということだ。逃走中にマスコミが報道していた地下鉄サリン事件への関与というのは審理の対象にもなっていない。

さる7月3日に行われた東京高裁での被告人質問でも、彼女が運んだ薬品をめぐって当時の教団内での状況が事細かに質問された。ちなみに1審での公判の時は多くの傍聴希望者が押しかけた法廷も、現在は抽選倍率が2倍に達していない。『創』編集部からは私を含めて計4人が抽選の列に並んだが、全員当選してしまった。

2011年12月に平田信・元信者が出頭してから逃走中の信者らが次々と逮捕され、オウムについての報道が一時期再び大きくなったが、菊地直子被告を始め、彼ら多くがマスコミの取材には基本的に応じていない。特に菊地被告については、「走る爆弾娘」という呼称を始め、マスコミが大きく報道してきたため相当有名になっているのだが、逃走の経緯を含め、ほとんど真相は明らかになっていない。裁判でもそれらは審理の対象になっていないため、今後も彼女自身が語らない限り明らかにならないままだろう。マスコミがどんな誤ったことを報じていようが、関わりあいになること自体忌まわしい、というのが彼女の心情だった。

しかしそんな彼女も、例えば一般の人から届いた手紙を見ると、まるで死刑にもなりかねないくらいの重罪を犯した印象を持たれていることに愕然とすることがあるという。自分の生き方やプライバシーを自分から進んでマスコミに公開する必要はないが、誤った報道が独り歩きしていることに対しては、自ら発信して改めていったほうがよいのではないか。私は彼女にそう勧めているところだ。

1審の東京地裁で彼女にくだされたのは懲役5年の判決だが、彼女は即日控訴し、今も係争中だ。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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