ルメールは、イクイノックスの逃げをいつ考え、独走の直線では何を思っていたのか?
2400で勝つ意味
日本馬が強くなったと言われて久しい。実際、近年だけでもパンサラッサやウインマリリン、エイシンヒカリ等、日本でGⅠを勝てていない馬が海の向こうで大仕事をやってのけるケースが増えて来た。また、ドバイワールドC(GⅠ)を見ても2021、22年とチュウワウィザードが2、3着した後、今年はとうとうウシュバテソーロが1着。ダートで行われたこのレースを日本調教馬が制するのは史上初めてで、砂の分野でもいよいよ日本馬と外国馬との差は無くなって来たと感じさせた。
しかし、こと2400メートル路線となると、ヨーロッパの壁はまだ厚い。凱旋門賞(GⅠ)を勝利した日本馬がまだいないのは広く知られているが、そもそもこのカテゴリーで、ヨーロッパのGⅠを制した日本調教馬は1999年にサンクルー大賞典(GⅠ)を勝ったエルコンドルパサーまで遡らなくてはならない。そして、後にも先にもそれが唯一の勝利例でもある。
実はこれは香港の香港ヴァーズ(GⅠ、芝2400メートル)やドバイのドバイシーマクラシック(GⅠ、芝2410メートル)でも似た傾向が見て取れる。香港ヴァーズは近年、ウインマリリンやグローリーヴェイズが勝ち、日本馬のレベルの向上ぶりを示したが、数値でいえばまだ圧倒的にヨーロッパの勝ち馬が多い。また、ドバイシーマクラシックも昨年こそシャフリヤールが勝ったが、GⅠになって20回を超える施行数の中で、日本馬の勝利はそれが僅か3例目。ほとんどはヨーロッパの馬が制していた。
そんな厚く高き壁を今年、ゆうゆうと打ち破ったのがイクイノックス(牡4歳、美浦・木村哲也厩舎)だ。
肩ステッキ一つでアイルランドダービー馬ウエストオーバーを3・5馬身突き放し、2分25秒65のレコードタイムをマークして勝利。現地ドバイでは「アブソリュートリーモンスター(絶対的怪物)!!」と称されたこの馬の手綱を取ったのは主戦のクリストフ・ルメール。逃げの手はいつ考えたのか? 独走の直線では何を考えていたのか? 改めて聞いてみた。
”逃げよう”と決めた瞬間
レース当該週の火曜の朝には現地入りしたルメール。しかし、イクイノックスの調教には跨らず、中東ではレースでのみ、タッグを組んだ。
「最初から大きくて良い馬だったけど、同時に少し緩い感じがありました。それが昨年の夏を過ぎたあたりからパワーアップしたのかストライドがパワフルになりました」
パドックでも相変わらずの力強さを感じた。しかし、いざ本馬場に出ると「おや?」と思った。
「ダービーの時(22年2着)はリラックスし過ぎてハミをあまり取りませんでした。でも天皇賞は丁度良い感じで取ってくれて、有馬記念では向こう正面から自分で行ってくれました。今回はどうかな?と思っていると、返し馬から少し行きたがる素振りを見せました」
「初めてのナイター競馬とスタンドの音を気にしていたみたい」と感じた主戦騎手は、ここで一つの決心をした。
「逃げ馬がいないからスローペースになると思った事もあり、加えてこの雰囲気なら“逃げよう”と決断しました。控える競馬だと、掛かって冷静に走れなくなると思ったんです」
実際にはエルドラマあたりが逃げると思われたが、いずれにしろ緩い流れは必至と考えられたのは事実。そこで「掛かってしまうなら……」と先手を取る事にした。皆が驚いた“逃げ”の戦法だが、ゲートが開いた後、咄嗟に考えた策ではなく、返し馬の時点で決めた作戦だったのだ。
こうして前扉が開くと、鞍上の意思を察するように昨年の年度代表馬が好発を決めた。
独走した直線で考えていた事
「最初の400メートルを自分のペースで走れれば向こう正面ではリラックス出来ると考えていたところ、一、二歩目と速かったので、無理をせずにハナを奪えました」
その後、ハミを取った。しかし、ある偶然が、鞍下を力ませる事なく、走らせたと言う。
「左前を走るカメラ搭載車をイクイノックスがずっと見ていたので、掛かる事なく冷静に走れていました。他馬のプレッシャーも受けず、パワフルだけどスムーズに走れているという感じでした」
道中、終始好手応えのまま、直線に向いた。
「ずっと楽だったので、肩に鞭を入れたら瞬時に反応して加速しました。この時の速さが凄くて、一瞬で後ろの足音が聞こえなくなりました。だから、ついて来られる馬がいたら、それはとんでもないスーパーホースだと思いました」
後ろを見て確認すると「安全な距離が開いていた」(ルメール)。だから後はノーステッキ。ゴールインする前にパートナーのタテガミを撫で、最後は流して入線。それでもレコードタイムで駆け抜けた。
「ハーツクライでドバイシーマクラシックを勝った時もそうだったけど、能力の高いビッグストライドホース(跳びの大きな馬)は下手に馬群の中に入るより、逃げてレースをコントロールした方が良いです。そうすれば後ろの馬は追いつけません。2400メートル路線での逃げ切りは簡単な事ではないけど、力の抜けた馬なら出来ない芸当ではありません」
今回の遠征の直前に星になったかつてのパートナー・ハーツクライの名を挙げてそう言うと、後続を突き放した時の心境を次のように続けた。
「早々に勝利を確信出来た最後の直線では、既に次のレースの事を考えていました。イクイノックスは次、どのレースに使うのか?そしてその時はどう乗ろうか?と、すでにそこまで考えました」
レース翌日には厩舎を訪れ、モノ凄いパフォーマンスを見せた怪物の様子を確認した。
「一所懸命に走ってくれたけど、モノ見をする余裕もあったせいか、それほど激しく疲れが残っている感じはしませんでした。この後も楽しみです」
週明けの月曜には芝部門では現役世界最高となる132のレーティングを獲得した事が発表されたイクイノックス。今後も世界を舞台にした活躍が期待出来そうだ。秋には日本ホースマンの悲願を達成するシーンがあるのだろうか。期待したい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)