知られざる10.20──今から32年前、“語り継がれない”南海ホークス最後の試合
「10.19」の翌日に行われた「ラストゲーム」
1988年10月19日、川崎球場はそれまでもう何年もなかったような熱気に包まれていた。ビジターの近鉄バファローズ(2005年にオリックス・ブルーウェーブとの吸収合併により消滅)がホームのロッテ・オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)に連勝すれば、西武(現埼玉西武)ライオンズの4連覇を阻止して、8年ぶりにパ・リーグの覇権を握るというダブルヘッダー。
スタンドは満員札止め、3万人の大観衆で埋まり、テレビ朝日は第2試合の途中から人気ドラマを飛ばして放送。さらにこれも人気番組だった『ニュースステーション』内で中継を続けるなど、一種の社会現象にまでなった。
このダブルヘッダーを現地で観戦していた筆者はその翌日、10月20日も再び川崎球場に向かった。予定されていたのはロッテ対南海ホークス。6位と5位の対戦という“消化試合”に足を運んだのは、これが「南海」としての最後の試合だったからだ。
「南海」51年のフィナーレはキャッチャーゴロ
1リーグ時代の1938年に南海鉄道(のちの南海電鉄)を親会社として誕生し、近畿日本、近畿グレートリングへの改名を経て、1946年から「南海ホークス」の名称でパ・リーグ制覇10回、日本一2回に輝いた名門も、この年の9月に小売業の大手、ダイエーへの身売りを発表。翌年からはフランチャイズを福岡に移し、「福岡ダイエーホークス」として生まれ変わることが決まっていた。
10月15日には本拠地・大阪球場での最終戦で近鉄を6対4で下し、試合後には華々しいセレモニーが行われたため、既に南海の歴史にはピリオドが打たれた感があったが、実際にはビジターでの試合が残っていた。10月16日に藤井寺球場での近鉄戦、そしてこの日のロッテ戦こそが正真正銘の「ラストゲーム」。
いざ球場に足を運んでみると、前日の熱気はどこへやら。閑散とした「いつもの」川崎球場に戻っていた。ロッテにとってはこの日がホーム最終戦ということで、当時はこの手の企画が多かったのだが、外野席は無料開放。まだ学生だった筆者も、友人とともに迷わず外野に陣取った。
試合は南海の1点リードで迎えた6回裏、ロッテが一挙4点を奪って逆転。南海は7回表に三番・佐々木誠のソロ本塁打で1点を返すが、反撃もそこまで。8回からマウンドに上がった高卒ルーキー、伊良部秀輝に完璧に抑えられると、最後は一番・畠山準の打球が力なく捕手の前に転がり、どこからともなく「あーあ」という声が上がった。南海ホークス51年の歴史は、キャッチャーゴロであっけなく幕を下ろした。
ちなみにこの日の観衆は、公式記録では8000人。これは無料開放された外野席の観客も含めた数だとは思うが、とてもそんなにいたようには思えなかった。
静寂の中に響いた「門田、辞めるなぁー!」
5位でシーズンを終えた南海は、これで野村克也選手兼任監督の退団後、11年連続のBクラス。その中で大きな注目を浴びていたのが、チーム一筋19年目で、40歳にして44本塁打、125打点をマークした「不惑の大砲」門田博光であった。
この日の最終戦は2打数ノーヒット、2四球。それでも本塁打王と打点王の二冠はほぼ確定していたが、チームが大阪を離れて福岡に移転することもあり、引退するのではとの報道もあった。そこで試合が終わると表に出て、うつむき加減にバスに乗り込もうとする門田に、思い切って声をかけた。
「門田、辞めるなぁー!」
今考えると恐れ多いことだが、”ファン”とは大胆なものである。周りが静かだったせいか、思いのほか声が響き渡り、翌日のスポーツ紙にはその言葉が少し言い回しを変えて使われていた。それも思い出の1つになっている。
これは余談だが、門田はこの年でユニフォームを脱ぐことはなかったものの、トレードでやはり身売りにより阪急からオリックスに看板の代わったブレーブスに移籍。1991年にはダイエーとなったホークスに“復帰”し、NPB史上3位の通算567本塁打を置き土産に、翌1992年に44歳で現役を引退した。