奈良教育大は附属小の創造的な教育実践を「不適切」と切り捨てた。教育大として「不適切」なのでは?
附属小が行ってきた「創造的な教育実践」を、奈良教育大は「不適切」と切って捨てた。学習指導要領は主体的・創造的に生き抜いていくための教育を求めているが、そのためには創造的教育実践こそが必要なはずである。
教育の専門家がそろっているはずの奈良教育大のやっていることは、「教育大学とはおもえない」と、名古屋大学名誉教授の中嶋哲彦氏も言う。中嶋氏に訊いた。
|授業時数不足は学習指導要領違反ではない
―― 附属小が学習指導要領に示された内容の実施(授業時数・履修年次・評価の実施を含む)をしていない「不適切」があった、と奈良教育大は指摘しています。
中嶋 教育大学とはおもえない議論です。たとえば授業時数ですが、そもそも学習指導要領は授業時数を定めていません。授業時数は、学習指導要領を基本にした教科書を、教員が教えるために利用する指導書に、参考として示されているにすぎません。
だから、指導書の授業時数に足りなかったからといって、学習指導要領に違反しているとはいえないわけです。指導書の授業時数に足りている、足りていないを議論すること自体が、かなり異常なことでしかありません。足りていないのが学習指導要領に違反するという指摘は、フレームアップ(でっちあげ)でしかありません。
学習指導要領に基づいて授業を行うことと、教科書どおりに授業することは、まったく別のことです。教科書はあくまで教材でしかありません。その教科書どおりに授業をやっていなかったからといって、学習指導要領にのっとった授業ではない、とはなりません。
教科書どおりにやらないと学習指導要領違反になるとして、自主性や自発性、工夫を否定することを、奈良教育大は言っているわけです。国立の教育大学なので教育の専門家がいるはずなのに、とても専門家がいるとはおもえないことをやっている。
|学習指導要領の法的拘束力は曖昧
―― 附属小は学習指導要領に違反しているわけではない。それが違反しているとして批判されているわけですが、そもそも学習指導要領どおりにやらなかったら法律違反なのでしょうか。
中嶋 そこは、ちょっと難しいところがあります。「旭川学力テスト事件」というのがあって、その最高裁判決が1976年にでています。そこで、学習指導要領は大綱的基準だとされています。
―― 北海道の旭川で、「全国中学校一斉学力調査」(全国学力テスト)を阻止しようとした反対運動派が公務執行妨害などに問われた事件ですね。
中嶋 学習指導要領は大綱的基準だけれども、大綱的基準ですから全部が法的拘束力をもっているわけではない。ただし、どの部分に法的拘束力があって、どの部分に法的拘束力がないのか、じつは曖昧なんです。それが最高裁判所の言い方なんです。
だから、学習指導要領違反を言うのは難しいはずです。しかも、先ほど説明したように、授業時数は学習指導要領で定めているわけでもないので、学習指導要領違反と批判するのはおかしいわけです。
そして附属小の教員たちは、違反と指摘されたところについて、「問題ない」と反論もしています。そこは、大事なところだとおもいます。大学側は、その反論も聞くべきです。
|教科書どおりの道徳こそ道徳的ではない
―― 道徳の授業について大学側は、「全校集会」で行われていたのは「特別の教科である道徳」としての実施とはいえないとして、指導および時数不足としています。
中嶋 学校教育法施行規則的に違反しているという点ですね。でも、道徳的な指導をやっていなかったわけではありません。全校集会など必要な場面で、必要な道徳的な指導は行われています。それが、本来の道徳の扱い方だとおもいます。
教科書にそった単元ごとの授業としてやっていくことのほうが、道徳教育としては適切ではないとおもいます。そんな授業では子どもたちには実感も納得もないので、効果がない。
―― 教科書だけでやる道徳の授業は、子どもの実態をみないでやっている授業でしかない。奈良教育大附属小で行われていた道徳は、子どもの実態をみながらの授業だということですか。
中嶋 そういうふうに考えるべきです。これは、大事な部分だとおもいます。そうなると、学校教育法施行規則で道徳を教科として位置付け、教科書を検定までやるやり方を決めたのは文科大臣ですから、文科大臣の裁量に問題があったということになります。
そういう議論にしていかなければいけません。それが、教育大学としても正しい方向性ではないかとおもいます。
―― 附属小のやり方を単純に法律違反と切り捨てるのではなく、道徳教育の在り方を考えなおすきっかけにすることが教育大学としての正しい選択だったということですね。
|校長に権限を集中することが、良い学校にはつながらない
―― もうひとつ大学側が問題にしているのが、校長権限です。職員会議の決定権が強いことがケシカラン、というわけです。
中嶋 学校教育法施行規則の改正で、職員会議は校長の補助機関と規定されたことを背景にしているとおもいます。しかし、校長に権限を集中することが、良い学校をつくることになるという根拠はどこにもありません。
もともと戦後の学校は、自治を大事にするところから始まっています。文部科学省や教育委員会からすれば、言うことを聞かせるのが難しい組織だったわけです。その中心になっていたのが職員会議で、自分たちの発言力を高めたい文部科学省や教育委員会は職員会議を攻撃のターゲットにしてきた歴史もあります。
校長権限を強めることは、職員会議の発言力を弱め、上からのコントロールがしやすい組織をつくることになります。それによって、教員たちが話し合い、相談しながら学校をつくっていく文化が急速に衰えてきました。
―― それによって、何が失われるのでしょうか。
中嶋 子どもの現実をみる力だとおもいます。子どもがどういう状況にあって、それに教員としてどうかかわらなければならないかを考え、学校として取り組むことが大切です。トップダウンの組織では、教員ひとりひとりの現実をみる力が弱まってしまいます。
現実をみることから、教員同士が励まし合い、協力し合う関係性も生まれます。それが、急速に失われてきました。
―― 校長権限を強めることで、現実をみないで、上から言われたことを素直に実行するだけの組織になってしまいますね。
中嶋 それって、モラルハザードなんですね。上が決めた枠内だけで行動していれば、教員は責任を問われることはありません。波風をたたせない過ごし方ではあります。しかし、子どもの現実を無視することになってしまいます。
|学校現場を信用しない行政
―― 迷惑を被るのは子どもたち、ということになります。管理を強くして、文部科学省や教育委員会は、いったい何をしたいのでしょうか。
中嶋 日本の教育行政の特徴と言っていいとおもいますが、現場を信用せずに、教育は国家の事業だとおもっています。政府の文書には、教育は統治行為だという表現さえあります。個人の成長を公教育制度で保障していくのではなく、国家に必要な人材を養成するのが教育だと位置付けているわけです。
明治時代の考えですが、いまの政策立案者もそこから抜け切れていない。だからこそ、国家が縛っていく姿勢になっているわけです。
国家に必要な人材を養成するのが教育の目的だとは、教育基本法とか学校教育法には明記されていません。それでも教育組織の川下にいけばいくほど、その考えに凝り固まっている。地方の教育委員会が典型で、統制的な体制を強めようとしています。
―― 今回の件でも奈良県教育委員会が発端となっていて、統制的な体制の強化のために附属小批判があるような気がします。
中嶋 そういう効果のある動きを、奈良県教育委員会がしていることはいえるとおもいます。
―― 附属小は、国家のための人材育成ではなく、個人の成長を支えるための教育をしてきたとおもいます。それが攻撃されているとも考えられます。
中嶋 個人の成長を重視してきたのが、附属小の実践ですね。そういう努力を、創意工夫しながら教員はやってきています。
ただ、個人の成長を支える教育実践が、国家のためにならないかといえば、そんなことはありません。附属小で大事にしているのは、子どもたちが自分で発見し、考え、学んでいく力を育てる実践です。
いまから必要なのは、そういう人材なはずです。そういう人材が、これからの社会に役立ってくれるはずだし、国のためになるはずです。そういう教育を批判して潰すことは、国のためにならないことになります。
―― 上からの統治、コントロールを重視するあまり、国のためにならないことをやってしまっているのが、附属小への攻撃といえそうですね。ありがとうございました。