マカロンと「ラデュレ」のイメージを築いた女性サフィア スペシャルインタビュー(前編)
数あるスイーツの中でマカロンがこれほどまでに有名になったのは、「LADURÉE(ラデュレ)」の功績と言っても過言ではないでしょう。
1862年からの歴史があるこの老舗パティスリー「ラデュレ」。季節ごとに発表される新鮮なフレーバーと美しい箱の数々はパリの風物詩であり、“モード "(流行の最先端)とも言えるものです。
スイーツが“モード”になりうるというこの潮流の創造には、じつは1人の女性が深く関わっています。その女性の名は、Safia THOMASS-BENDALI(サフィア・トーマス=ベンダリ)。
1999年、「ラデュレ」社長ダヴィッド・オルデー氏に請われて、同社のコミュニケーション、マーケティング、イメージ部門のマネージャーとなり、以来23年間「ラデュレ」の成功を牽引してきました。
昨年2021年、オルデー氏が「ラデュレ」の株式の大半を譲渡するのに伴い、引退を決めたサフィア。前回の記事としてご紹介した「ミモザ」は、サフィアが関わったマカロンの最後のシリーズだったのです。
私はこの機会にサフィアに話を聞いてみたいと思いました。二つ返事で引き受けてくれた彼女は、数日後、私を彼女のアパルトマンに招いてくれました。
パリの一時代を築いた稀有なセンスと実行力の持ち主、サフィアのロングインタビュー。
ここには「ラデュレ」というブランディングはどのようにして創られたのか? その成功秘話だけでなく、いつの時代でも輝いている先進的なフランス女性の生き方まで、示唆に富むお話が盛り込まれています。
自立したパリジェンヌ
「ラデュレ」でのことを話す前に、私のそれまでのことを話す必要があると思うわ。
とサフィアは切り出します。
パリ近郊ヌイイにある私立病院「アメリカンホスピタル」生まれ。パリ17区育ち。
そう聞くと、パリに暮らす人は「あ、ブルジョアな家庭の生まれ」という印象を持ちます。年齢を聞いてもまったく臆することなく、「63歳よ。1958年生まれ」と、潔い答えです。
オペラ、ダンス、演劇、音楽、美術。そういったものに囲まれて育ったと彼女は言います。
父親の存在は大きかったけれど、仕事が忙しくて不在がち。私は母、祖母、叔母たちに育てられました。母系の文化。常に仕事をして、決定権を持っている女性たち。政治的なことにもちゃんと自分の意見を持っていて、なおかつ不平は言わない、そんな女性だったわ。
祖母は学校の先生。つまり女性も男性と同等という考えを持った人でした。母も責任ある仕事についていて、3回結婚をしましたが、家を仕切っていたのはいつも母。つまり女性が常になんでも決めて力を持っていました。
「何があっても、あなたは経済的に自立していなくてはならない」と言われて育ちました。「あなたは自分のしたいことがわかっていて、男性に決して依存してはならない」と。
バレエに熱心に取り組んでいて、たくさん踊っていました。そんな経緯から、たまたま劇場のコスチューム制作の女性と一緒に働くことになったのがサフィアの最初の仕事になりました。
一方で父は私にこう言っていたものです。
「君にはもっと重要な願望があるはずだ。他の方向に進んだ方がいい」
じつは私は、ジャーナリストになりたいとずっと思っていました。文化的な分野のジャーナリスト。モード、と言ってもプレタポルテではなくて、オートクチュール、ハイジュエリーなどリュクスなもの、芸術的な価値のあるものにとても興味があったけれども、具体的にどうしたらいいのかわかりませんでした。
ファッションジャーナリストへの夢
「今とは違う時代だった」と、サフィアはジャーナリストになるまでのことを語るのに、そう回想します。
『Jardin des Modes(ジャルダン・デ・モード)』という雑誌が大好きで定期購読していたの。すると一緒に仕事をしていたコスチュームデザイナーは私にこう言いました。
「『ジャルダン・デ・モード』に本当に興味があるのだったら、最後のページに編集長の連絡先があるでしょう。そこに電話したらいいのよ」
「わかった」と、私は編集長に電話をしました。その時代の編集長はアリス・モーガン。電話をすると、彼女は不在で、明日の10時にかけ直すように言われたの。
そこで私は翌朝10時に電話をすると、今度は彼女が出ました。
「あなたの雑誌がとても好きで、働きたいと思っている」と私。
すると彼女は、「オッケー。今日の午後会いましょう」。
今だったらあり得ないわよね。
午後4時だったか5時だったかのアポイントで私は彼女に会いました。
「あなたのキャリアは素晴らしい。雇うわ」
そうして私は『ジャルダン・デ・モード』に入り、それから15年間仕事をすることになるの。
雑誌の編集長に見ず知らずの読者が電話をして就活が成功する。確かに、今ではちょっと考えられない話です。
どうして『ジャルダン・デ・モード』が好きだったのか?
もちろんモードにも注目していたけれど、カルチャー、映画、建築、デザインなども守備範囲にしている雑誌だった。だから、編集部にいると、映画監督、デザイナー、建築家、写真家も、とにかくあらゆる人たちに会うことができて知り合いになれたの。
たとえば『ヴォーグ』というような雑誌とは違って、予算はそれほどなかったけれども、だから逆に一人がたくさんのことを担当する。そんなふうに、あらゆるカルチャーをミックスしたところが私は好きでした。
華やかなパリの仕事人生
キャリアを積むにつれて、サフィアはその雑誌の仕事の他にもプロジェクトを手掛けるようになってゆきます。
出版社「フラマリオン」から数年間にわたって刊行された「アール・ド・ヴィーヴル」シリーズ。雑誌『エール・フランス・マダム』や、「シャネル」「ディオール」「ルイ・ヴィトン」などたくさんのブランドと仕事をするようにもなりました。
また、彼女の次のような話からは、パリのファッション業界が輝いていた時代の空気も伝わってきます。
『ジャルダン・デ・モード』編集部は大所帯ではなかったから、パリコレの時期にはあらゆるファッションショーに手分けして行ったものよ。しかも当時は今の10倍くらいの数のショーがあったんじゃないかしら? 2週間のファッションウイーク期間中、毎日15くらいのショーがある。
「ディオール」「ジヴァンシー」「サンローラン」が輝いていた時代だったし、今はなくなってしまったブランドもたくさんありました。1日15件くらいあるショーを手分けして回ることになるわけだけれど、「ソニア・リキエル」のショーは、いつも日曜の10時と決まっていました。
日曜の朝という時間だと、編集部の誰もそのショーには行きたがらない。けれども、私はマダム・リキエルの大ファンだったので、ショーにはいつも私が必ず行きました。
「ニットの女王」と異名をとる女性デザイナーのソニア・リキエル。パリ6区のサンジェルマンを拠点にしたブランドは、彼女のライフスタイルともどもパリジェンヌの象徴のような存在でした。
当時私は、パリ6区のPÉRRONET通りに住んでいたのだけれども、その私にとってマダム・リキエルは6区のイメージを完全に体現した人だった。彼女の人物像もファッションも好きだったから、私はいつも彼女のような格好をしていました。
ちなみに、「ソニア・リキエル」か「ヨージ・ヤマモト」を着ているのが私の当時のスタイル。日本のデザイナーたちが大活躍していた時代でもあるわね。
そうしているうちに、マダム・リキエルのインタビューがあるといつも必ず私が担当するということになっていきました。
ところで、サフィアは、ジャーナリストになる前にコスチュームデザイナーと仕事をしていたと言いましたが、実はそれよりも前にすでに社会経験があります。それは皆さんもご存知のパリのデパート「プランタン」でした。
私は学生の頃からすでに仕事をしていたの。というのも、母は学生でも2ヶ月とか2ヶ月半もヴァカンスで休んでいるというのは普通じゃない、仕事をすべきだと考えていました。
それで母は私に夏のほぼ1ヶ月間仕事をするように勧めました。母は「プランタン」デパートで責任のある仕事をしていたので、当時のプレジデントに頼んで、私を働かせる手配をしました。
それで私は16歳から24歳くらいまで、毎夏、7月の1ヶ月間は「プランタン」デパートで働いていました。いろんな売り場の販売員として。「ヴァカンスには自分のお金で行きなさい」という母。ちょっとアメリカ的ね。
夏の間、毎朝母と私は2人で出勤。私は私の仕事場、母は母の仕事場に行く。そして帰りも一緒に帰ってくる。母と私はいつもいい関係でした。
さて、どうしてサフィアが「プランタン」の話をしてくれたのか。実はこれが、後年の彼女の転機の伏線になるのです。
ミッションインポシブル
サフィアの夫は、ブルース・トーマス氏。ランジェリーのブランド「シャンタル・トーマス」を創った人です。ブランドを成功に導き、それを売却した後、トーマス氏はマダガスカルで手仕事のアトリエを立ち上げていました。
一方、ジャーナリストで、他にもたくさんのプロジェクトを並行する活躍をしていたサフィアはパリが拠点。となると、夫婦がなかなか一緒にいることができません。そこで、二人で過ごす時間を増やすために、彼らは一計を案じます。
それはサフィアもマダガスカルでのプロジェクトに関わること。そう考えたとき、サフィアは学生時代の彼女に仕事を与えてくれた「プランタン」のプレジデントに会いに行くのです。
当時、私は30代。今思えばかなり生意気でした。私はプレジデントにこう言いました。
「毎年デパートでエクスポジションをしているけれども、いつも英国とか同じようなテーマで面白みがない。そこで私は新しい提案をしたいと思う」
と持ちかけたのです。
「何?」と彼。
「マダガスカル」と私は答えました。
「マダガスカル? 何かできるのか?」
「はい。たくさんあります」
「OK」
となったのだけれども、よくよく考えたら「ミッションインポシブル」。20種類の商品が作れるとは思っていたけれども、エクスポをするには3000点はないといけない。しかもあらゆる色展開が必要…。
そこで、私はブルースと一緒にすぐさまマダガスカルに発ち、織物、かご、木彫などなど、あらゆるアトリエを作って3年に渡って準備をしました。バイヤーを連れて行ったりしながら年の半分は現地にいるという日々。
そして、結果的にエクスポは大成功をおさめたの。
マダム・リキエルからのスカウト
その直後、サフィアの人生の新しい扉が開きます。
マダム・リキエルが私にコンタクトをしてきて、こう言いました。
「あなたは本を作れる、エクスポができる、モードをよく知っている、そして私のこともとてもわかっている。だから私と働きなさい」と。
当時の私はとても自由でした。時間の制約はなく、閉じこもっているのが好きではない。
そこで私はまずこう答えました。
「ソニア。できるかどうかわからない」
すると、彼女はこう言いました。
「あなたは私自身のことと、私の広報活動をしてほしい」
「わかりました」と私。
私は彼女のことが大好きだから、長く考えることはありませんでした。
それまでしていた仕事を整理した後、彼女の本を作り、インタビューをオーガナイズしたり、エクスポの準備をしたり、つまりマダム・リキエルに関することのすべてをしました。
マダム・リキエルとはとても気が合った。マダムは70代にはなっていたけれども、まだまだキャリアの終わりではなかった。
けれども、5年ほど経った頃から、娘のナタリーが「ソニア・リキエル」ブランドの中で存在感を増してきました。
私の性格はなかなか頑固なところもあるのはきっとご存知よね。
私にとってブランドとはつまりソニアだった。ナタリーではない。
だからナタリーのために働くことは不可能だった。ソニアのために仕事をするのが好きすぎたの。
2人の女主人を持ちたくなかったし、何より、ソニアをほうっておきたくなかった。
例えば、インタビューの依頼が来た時、ソニアではなくナタリーにと言われるのが快くなかった。
ソニアが築き上げた帝国が分割されてゆくようなのが理解できなかったし、私自身の好む状態ではなくなって行ってしまった。
それで、辞職を申し出たの。
マダム・リキエルはすぐにサフィアの辞表を受け入れてはくれませんでした。
彼女に代われる人をすぐに見つけられるはずがなく、進行中の本の制作を完了させる必要もありました。
そこでサフィアはさらに半年マダム・リキエルの仕事を続けるのですが、一つの扉が閉じようとすると、もう一つの扉が開く。サフィアと「ラデュレ」の接点はまさにこの時に訪れるのです。
※「ラデュレ」をいかにして世界的なブランドにしたのか。そのあたりの話は後編でご紹介します。