コロナ禍も経営難に拍車か。消滅へ「ミラクル・キエーヴォ」の記憶
イタリアで、一つのクラブの歴史が幕を閉じた。
2021年8月、キエーヴォ・ヴェローナが財政難による破産も買い手がつかず、事実上、クラブ消滅に追い込まれている。イタリアサッカー連盟からセリエBからの除外処分を受けていた。アマチュアのセリエDからの再起を目指し、出資者を募ったが、白馬の騎士は現れなかった。
「ミラクル・キエーヴォ」
2000年代前半、世界中から絶賛されたクラブが消える事態になったのだ。
キエーヴォは2018-19シーズンまで、セリエAに在籍している。過去20年、ほとんどセリエAという日の当たる場所にいた。それだけに青天の霹靂と言えるが、ここ数年は厳しい経営状況が伝えられ、コロナ禍がそれに拍車をかけたか。クラブが存在するというのは、商業主義が蔓延したプロサッカー界では奇跡に近いのかもしれない。
2003年4月、筆者はヴェローナを訪れ、ミラクル・キエーヴォの実像に迫っている。当時を振り返ることで、この結果を検証することはできないか。どのクラブも、この結末は他人事ではない。
青年会長が起こした奇跡
キエーヴォが本拠とするヴェローナ市は、屋根が茶色に統一されていた。どこか浪漫を感じさせる、整然とした街並み。観光地としてはロミオとジュリエットの舞台として有名だ。
その一角にあるキエーヴォ地区に、決して強い印象は残っていない。
しかし、そこで会った人々はおとぎ話の登場人物のように心を引き寄せる魅力があった。
「ハリー・ポッター」
そう呼ばれていた青年会長、ルカ・カンペデッリは当時34歳だった。若造のようで、父ルイージの後を継いだ会長歴はすでに13年。眼鏡をかけた姿は理知的で穏やかに見えたが、夢を見るような無垢さも消えない。その容姿が魔法使いハリー・ポッターに準えられたわけだが、起こした奇跡への畏敬も込められていた。なんとセリエCからセリエAまでチームを引き上げていたのだ。
2001年にセリエAに昇格後、2001-02シーズンは優勝争いをして5位と健闘。2002-03シーズンにはチャンピオンズリーグにも出場し、取材に訪れた時も6位と踏ん張り、その強さがフロックではないことを証明していた。
「ここまで来られたのは、地道な活動があったからこそ、です。監督、GM、選手、そこにいる広報のベラや用具係・・・それはもういろんな人の尽力がありました。なにもしていないのが、会長の僕なのです」
カンペデッリは透き通るような声で言い、小さく笑った。
その謙虚さが、チームを躍進させたか。
空飛ぶロバ
ヴェローナ市にはエラス・ヴェローナという、過去にスクデットを獲得したことのある強大なクラブがあった。キエーヴォは創立1929年と歴史は長かったが、長らくアマチュアの域を出ていない。
「キエーヴォがセリエAに?冗談はよせ。ロバが空を飛ぶようなもんだ」
かつてはそうからかわれたという。ロバはチームキャラクター。空を飛ぶことは不可能を意味していたが、ロバには翼が生えた。
守りの重鎮、ニコラ・レグロッターリエは一翼を担っていた。当時はイタリア代表で、ファビオ・カンナバーロの控え。その実力は、カルチョの世界で認められていた。気取り屋に見えたが、話してみると朴訥だった。大口はたたかない。それはディフェンダーという職業から来る堅実さだったか。
「キエーヴォのおかげで今の自分はある。武器?ヘディングとフィードかな。理想のディフェンダーは(フランス代表)ブラン。彼のように泰然と落ち着いてプレーしたいね。今は独身。だから奥さんと息子、娘、いい家族が欲しいな」
イタリア人らしく、家族に居場所を求める男だった。
「僕よりうまい選手はアズーリ(イタリア代表)にはたくさんいます」
シモーネ・ペッロッタはそう言って、顔をほころばせた。感情が豊かで、人を誘い込む笑みだった。それがピッチでは一変、どう猛に相手のボールを奪い、スペースを駆けまわり、味方に活力を、敵に恐怖を与えた。彼もキエーヴォから代表まで駆け上がった。
「自分は下手くそなので、アズーリでのプレーは勉強になりますよ。ただ、僕には“テンペラメント”があります。“闘う気質”というのでしょうか。ピッチではアグレッシブにいきますよ。それで味方に貢献するのです」
また、エウジェニオ・コッリーニはキエーヴォで自分の道を見つけた。ユベントスで期待された選手だったが、力を出し切れぬまま、セリエBにいたキエーヴォにたどり着いた。
「キエーヴォにはすばらしい仲間がいます。彼らと一丸になり、ビッグクラブをうち破る瞬間はたまらない恍惚です。夢?私はいつまでもケガなくボールを蹴れれば、それでいい」
居場所を見つけた男の顔だった。
これだけの選手が集まったのは、一つの奇跡だったのかもしれない。その戦いが、さらに他の選手も呼び、ロバはどこまでも高く飛んだ。
キエーヴォに夢を見せた指揮官
そして当時のキエーヴォには素晴らしい指揮官がいた。
「私はフリウリ出身だが、あの土地の人々はいつも力強く生きてきた。オーストリアの支配下におかれ、1976年には大地震に遭い、たとえすべてを失ってもね。勤勉で自立心があり、とびきりしつこい。だから、指揮官に向いているんだよ」
ミラクル・キエーヴォを率いたルイジ・デルネッリはそう言って、口許だけで笑った。フリウリはイタリアが生んだ名監督、ロッコ、ベアルゾット、ゾフ、カペッロが生まれ育った町だ。
「自分のアイデアがピッチで実証されたときこそ、私は生きる心地を得ることができる。そこに監督としての充足感はあるんだ。すべてのカテゴリーで監督を経験し、ここに来る前の2年間は職もなかった。みんながセリエAにたどり着けるわけではないから幸せ者だ」
そう語るデルネッリは、イタリアのサッカー観を覆すほどエキセントリックな戦いで名を上げた。
「私はカルチョの流れを変えたと思っている。これまで小さなクラブはビッグクラブと対戦する前から、いかに負けないかを考えてきた。しかし、0-4で負けることもあるが、4-0で勝つこともある。それをキエーヴォは証明したのさ。カルチョはゴールを奪うスポーツ。最近はリーグ全体でゴールが増えているだろ?」
フリウリの名将は誇らしげに言った。
当時、彼らは夢の中にいた。
<キエーヴォの夢の結実>
そんなものは誰一人考えていなかった。
夢の結実
―これからキエーヴォをどうしたいのか?
当時、カンペデッリ会長はその問いにこう答えていた。
「1975年、父がアマチュアリーグにいたキエーヴォを買い取りました。『いつかセリエAで』というのが父の意志で。それを継ぐことが自分の仕事です。会長は時にドライな判断を下さなければなりません。選手が商品ではなく人間なのは承知していますが、高く売れる選手は売って、安くて有望な若手を獲得する、というサイクルは小さいクラブの宿命で。キエーヴォは躍進を遂げましたが、安穏としていれば、次の年はセリエBに転落するかもしれません。今はキエーヴォをより安定した、自活力のあるクラブにしなければと思っています」
強い意志の継承、そして「自活力」と繰り返していた。当時、姉妹都市である仙台と連絡を取って、ベガルタ仙台との関係を深めようとし、鹿島アントラーズの柳沢敦にも食指を動かしていた。クラブビジネスの一環だった。
「この仕事、肉体的にも、精神的にもホントに疲れます。午前中はクラブ、午後は会社のオフィスに行くんですが、何かクラブであれば飛んでいかないと。月曜から土曜日まで神経はすり切れます。会長職はとても難しくて、逃げ出したい気持ちになりますよ」
彼はそう言いつつ、こう続けた。
「そんな苦しみが、日曜日になると吹き飛んでしまうのです。キエーヴォのゲーム。それを観ることで煩わしいことがすべて忘れられます。90分間、とても幸せです。ゲームに行かないで家にいれば奥さんの機嫌はいいのですが、これだけはやめられません。僕は日曜日にリセットされるのですよ。そしてまた新しい1週間が始まるんです」
少年時代、会長はキエーヴォに所属していた。しかし試合に出たことはなく、いつもベンチだったという。ボールを蹴るのが好きだった。会長室の壁に飾られた大きな絵には、キエーヴォのユニフォームを着た会長が描かれていた――。
あの部屋の絵はどうなったのだろうか。取材から18年の月日が経った。カンペデッリはセリエD降格を言い渡されるまで会長を務めていたようだ。
クラブに何が起こったのか。
一つ言えるのは、夢見る時間が終わったということだ。
欧州のクラブはどこもギリギリで経営をやりくりしていた。それはキエーヴォも変わらなかった。これほど健全で真摯な姿勢の会長がいても経営の難しさはあって、降格は甚大なダメージを受ける。1年で復帰すればどうにかなるが、さもなければ厳しい立場になる。コロナ禍もあって、こうした事例はさらに増えるだろう。
今は、キエーヴォというクラブを記憶にとどめたい。それは夢のある風景だった。もう一度、次の日曜日を楽しみにできる日々を。