【徳川家康は文章力で勝利!】160通以上の手紙が描く関ケ原の舞台裏
大河ドラマなどで話題な徳川家康。
関ヶ原の戦いで石田三成に勝利し、江戸幕府を開いたことでも有名な人物です。徳川家康は関ケ原の戦いが起こった年に合計160通以上の手紙(書状)を大名たちに出したことが確認されています。
現代とは異なり当時はパソコンもコピー機もありません。一つひとつ墨と筆を使って書いていたのです。ここまで精力的に大名にアプローチをかけていたのなら味方になる大名の気持ちもわかりますよね。
しかし、家康はただ大量の手紙を書いていたわけではありません。彼が関ヶ原の戦いで勝利した要因のひとつ、それは文章力です。
関ヶ原の戦いとは
ここで、まず関ヶ原の戦いについておさらいしましょう。
関ヶ原の戦いは、1600年に現在の岐阜県で起きた戦いです。天下分け目の戦いとも言われています。
徳川家康率いる東軍VS石田三成率いる西軍の争い。石田三成は、豊臣秀吉の右腕として活躍していました。当時強い力を持っていた豊臣秀吉が亡くなった後、天下を取ろうとしていた家康と戦いましたが、大名たちに裏切られ敗北。
結果は家康の勝利に終わります。
どうして石田三成は裏切られたのか
要因は様々なことが唱えられています。そのひとつが文章力の差。冒頭の通り、徳川家康は膨大な数の手紙を大名たちに届けました。しかし、石田三成だって大名たちに手紙を出していたのです。
違いは手紙の中身。
石田三成の手紙の内容は、いわゆる正論
など、石田三成は自分が思う正しいことを手紙で訴えていました。
現代でも、正論を過剰に押し付けられると嫌な気持ちになりますよね。当時の大名たちも「いや、それはわかるんだけどさあ……」と思っていたかもしれません。
徳川家康の手紙の内容は、相手目線で
戦をするとなると気になるのは、そのあとの報酬。お仕事やアルバイトをする際も、業務内容はもちろんですが、時給や待遇が気になります。
綺麗な理念やビジョンを掲げていた石田三成に対して徳川家康は手紙の中できちんと恩賞について言及していました。
文章力の違いが勝敗を分けた
自分が伝えたい正論を書いた石田三成
大名たちの心を動かす内容を書いた徳川家康
この違いが勝敗を分けたのかもしれません。
関ヶ原の戦いは言葉の戦いだったのですね。
文章とは生活の様々なところに存在しています。あなたが今、戦っていることも「相手目線に立った文章力」で勝利につなげてみませんか?