通算8000本塁打に王手のヤクルト。過去の記念弾達成者には2人の捕手に「決めポーズ」で人気の助っ人も
東京ヤクルトスワローズが球団通算8000本塁打まで、あと1本に迫っている。7月7日からナゴヤドームで行われた中日ドラゴンズとの対戦では、その1本こそ出なかったものの、チームは2勝1分けで3連戦を終え、現在のところ貯金2でセ・リーグ第3位。今日、10日から舞台をほっともっとフィールド神戸に移して行われる読売ジャイアンツとの3連戦で、通算8000本塁打の達成も期待される。
その達成を前に、1950年に「国鉄スワローズ」として産声を上げて以来、球団通算1号および1000本刻みの「記念弾」を放ったのはどんな選手たちだったのか、その顔ぶれを振り返ってみる(カッコ内のポジションは当該年度の登録による。年齢は達成時)。
1号:土屋五郎(外野手、25歳)
1950年のセ・リーグ創設と共に誕生した国鉄球団初の本塁打は、開幕から12試合目の3月24日、巨人戦(後楽園)で飛び出した。打ったのは身長168センチ、体重64キロの“小兵”土屋五郎(のちに土屋伍郎、土屋雅敬と改名)。社会人のコロムビアから入団したばかりの25歳のルーキーが放ったプロ第1号が、球団にとっては8000号への「第一歩」となった。
1000号:小淵泰輔(内野手、29歳)
球団通算1000号は、実質的に国鉄最後のシーズンになった1964年(1965年5月10日からサンケイスワローズと改称)。6月28日の大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)戦(神宮)でこれを達成したのが、中日から移籍してきたばかりの小淵泰輔である。新天地で正一塁手に定着したこの年は、初めて規定打席に到達してリーグ5位の打率.306、初の2ケタ本塁打となる15本塁打をマーク。翌年は17本塁打を放つなど、67年まで2ケタ本塁打を継続した。
2000号:大矢明彦(捕手、26歳)
サンケイアトムズ、アトムズ、ヤクルトアトムズと変遷し、新たに「ヤクルトスワローズ」となった1974年。球団通算2000号を打ったのは当時の正捕手、大矢明彦。強肩で鳴らし、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)に6回輝くなど守備での印象が強いが、打っては実働16年で93本塁打。この74年は自己最多の13本塁打を放ち、8月8日の広島東洋カープ戦(神宮)では球団通算2000号、そして2001号も打っている。
3000号:八重樫幸雄(捕手、30歳)
1981年9月10日の中日戦(ナゴヤ)で球団通算3000号を記録したのは、当時は前出の大矢に次ぐ2番手捕手だった八重樫幸雄。のちに代名詞となるオープンスタンスに変える前で、この年は71試合の出場で打ったホームランは3本だったが、その内の1本が球団史に残る記念弾となった。その後、中西太コーチの指導で独特のオープンスタンスに変えた八重樫は、大矢に代わって正捕手に定着し、85年には初の打率3割をマークしてベストナインに輝く。
4000号:広沢克己(外野手、27歳)
明治大からドラフト1位で入団した広沢克己(のちに広沢克、広澤克実と改名)が、球団通算4000本目のアーチを描いたのは、入団5年目の1989年6月29日の大洋戦(横浜)。9回表に抑えの中山裕章から放った、1点差に詰め寄るソロ本塁打だった。広沢はこの年は17本塁打に終わるも、翌90年から5年連続で25本塁打以上を記録し、91年10月10日の阪神タイガース戦(甲子園)では球団通算4500号も達成。91、93年には打点王にも輝く。「ドラ1」入団で記念弾を打った選手は、前出の八重樫とこの広沢しかいない。
5000号:ミューレン(内野手、29歳)
1996年に球団通算5000号を打ったのは、ホームランの後の「決めポーズ」でも人気を博したヘンスリー・ミューレン。来日2年目の95年に千葉ロッテマリーンズからヤクルトに移籍して、29本塁打、80打点をマークするなどリーグ優勝、そして日本一に貢献した助っ人は、8月21日の阪神戦(神宮)でソロ本塁打を放ち、球団史に名を刻んだ。歴代の外国人選手では69年にデーブ・ロバーツが球団通算1500号、2007年にはアーロン・ガイエルが同6500号を記録しているが、1000本区切りの記念弾を放った外国人はミューレンだけだ。
6000号:岩村明憲(内野手、25歳)
2004年に自己最多の44本塁打で当時の球団タイ記録を樹立した岩村明憲が、4月11日の巨人戦(東京ドーム)で桑田真澄から打ったシーズン第5号。これが球団通算6000号本塁打となった。第1号および通算7000号までの記念弾を記録した8人の中で、左バッターはこの岩村しかいない。岩村は07年にメジャーリーグに移籍したのち、楽天を経て13年にヤクルトに復帰。ヤクルト在籍時の通算192本塁打は、球団史上10位にランクされている。
7000号:畠山和洋(内野手、29歳)
球団通算7000号は、まだ記憶にも比較的新しい2011年10月2日の横浜(現横浜DeNA)ベイスターズ戦(横浜)。四番の畠山和洋が高崎健太郎から横浜スタジアムのレフト上段にたたき込んだ先制本塁打が、記念の1本となった。前年、プロ10年目にして初の2ケタ本塁打を放った畠山は、この年は四番に座ってリーグ2位タイの23本塁打をマーク。球団通算7000号達成の1週間ほど前、9月24日の中日戦(ナゴヤドーム)では、セ・リーグ通算4万5000号本塁打を放ったばかりだった。その後、チームがリーグ優勝した15年には、打点王にも輝いている。
ここまで「記念弾」を打った8人中、7人までが達成時は20代であり、うち3人が29歳というのは偶然にしても面白い。現在のメンバーでは、ここまで5本塁打でチームトップの西浦直亨が29歳である。
なお、今日から当たる巨人との対戦では、今季は山田哲人がホームラン2本、村上宗隆は1本。ちなみに山田は2016年5月8日の阪神戦(甲子園)で、能見篤史から球団通算7500号となる2ラン本塁打を打っている。