織田信長が比叡山を焼き討ちにした止むを得ない裏事情を探る
東映70周年を記念し、織田信長と濃姫を主人公にした映画『レジェンド&バタフライ』が上映中である。今回は、織田信長が比叡山を焼き討ちにした止むを得ない裏事情について考えてみよう。
元亀2年(1571)9月、織田信長の軍勢が坂本・堅田(滋賀県大津市)付近に放火すると、一斉に比叡山延暦寺に攻め込んだ。比叡山焼き討ちの様子は、『信長公記』に詳しく描かれている。
死者の数は、フロイスの書簡には約1500人、『信長公記』には数千人、『言継卿記』には3~4000人と数がバラバラである。坂本周辺に居住していた僧侶や住民たちは、日吉大社の奥宮の八王子山に立て籠もったが、信長の軍勢によって惨殺された。
天台宗の比叡山延暦寺は宗教的な権威として恐れられ、ときの権力者は容易に手出しできなかった。しかし、信長は比叡山延暦寺の権威を否定すべく、焼き討ちを実行に移したので、その革新性や無神論者を裏付けるような出来事であると、長らく評価されてきた。
しかし、山科言継(ときつぐ)は日記『言継卿記』で、「仏法破滅」「王法いかがあるべきことか」と焼き討ちを非難した。仏法とは文字通り仏教であり、王法とは政治、世俗の法、慣行のことを意味する。言継は、信長の行為を批判的に捉えていた。
当時の比叡山延暦寺の様子について、『信長公記』には「山本山下の僧衆、王城の鎮守たりといえども、行躰、行法、出家の作法にもかかわらず、天下の嘲弄をも恥じず、天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し、金銀まいないにふけり、浅井・朝倉をひきい、ほしいままに相働く」と書かれている。
比叡山延暦寺の僧侶らは宗教者としての責を果たしておらず、放蕩三昧だった。そのうえで比叡山延暦寺は、信長に敵対する朝倉氏、浅井氏に与同した。結論を言えば、こうした僧侶らの不行儀と信長に敵対したことが、比叡山焼き討ちの原因だったと考えられる。
前年の元亀元年(1570)、信長は比叡山延暦寺に対して、「信長に味方をすれば、山門(比叡山)領を返還すること」、「一方に加担せずに、中立を保つこと」、「左の2点を聞き入れないなら、根本中堂を焼き払うこと」を通告していた(『信長公記』)。
結局、比叡山延暦寺の衆徒は回答せず、朝倉氏、浅井氏に味方したので、信長は比叡山焼き討ちを決意したのである。重要なことは、信長が仏教を否定したのではないということだ。
比叡山が焼き討ちにされたのは、比叡山延暦寺の僧侶が仏教者たる本分を忘れ、修学に励まず放蕩生活を送り、信長に敵対する勢力に加担したからだった。それだけである。
信長による比叡山焼き討ちは、仏教の否定、比叡山延暦寺の宗教的権威の否定と捉えられ、信長の革新性や無神論者であることを裏付ける行動とされてきた。しかし、今では誤りであると指摘されている。