阪神OB同士で実現した練習試合(熊本学園大付属・米村和樹vs智弁和歌山・中谷仁)
先週末、熊本城公園内にあるリブワーク藤崎台球場(藤崎台県営野球場)へ行ってきました。1996年7月19日に行われたプロ野球のジュニアオールスター取材以来、実に25年ぶりの熊本で、今回は2人の阪神タイガースOBと再会。お互い老けたはずなのに、話をしたら当時の鳴尾浜へタイムスリップできるのが不思議ですね。
阪神のOB2人とは、熊本学園大学付属高校野球部で外部コーチを務める米村和樹さん(47歳・1992年ドラフト3位)と、今夏の甲子園で全国優勝を果たした智弁学園和歌山高校野球部監督の中谷仁さん(42歳・1997年ドラフト1位)。米村さんとは24年ぶり、中谷さんとは12年ぶりの再会でした。
中谷監督については、この夏にも多くの記事が出ていたので皆さんよくご存じでしょう。ここで米村さんのプロフィールをご紹介します。
熊本学園大付属から唯一のプロ選手
米村和樹さんは熊本商科大学付属高(現・熊本学園大学付属高)から1992年のドラフト3位で阪神に入団した右投手です。ストレートは144キロと当時ではかなり速く、さらに打者の内角をえぐるピッチングが持ち味の大型サイドスロー。高校3年春の県大会では、コールドゲームの参考記録ながら2試合連続ノーヒットノーランを記録し、斎藤雅樹二世と注目を浴びました。
阪神の同期は安達智次郎投手、竹内昌也投手、片山大樹選手、山本幸正投手、塩谷和彦選手、山下和輝選手、豊原哲也選手です。入団後は2度のアメリカの教育リーグ参加などを経験したものの1軍登板はなく、1997年に退団しています。
そのまま現役を引退して地元の熊本へ戻り、電機関係の会社で16年勤務。2014年から家業の電気工事店を継ぎました。それに合わせて2014年末、大阪で開催された『学生野球資格回復制度研修会』に参加して認定を受け、念願だった母校のコーチ(外部コーチ)就任。今は週2回、練習に参加して投手陣を指導中です。
なお米村さんが通っていた頃と違う校名なのは、熊本商科大学が1994年4月に熊本学園大学へと改称されたことに伴い、付属高校名も変更になったためで、米村さんが1993年3月に卒業した1年後に変わったわけです。
2年越しで実現した記念試合
この2人がなぜ熊本で?という説明が遅くなってしまいました。きっかけは2年前の秋に遡ります。翌2020年に創立60周年を迎える熊本学園大付属野球部は、記念の練習試合を計画中でした。そこでOB会のメンバーである米村さんが、この1年前に中谷さんが監督となっていた智弁和歌山に「声をかけてみましょうか?」と提案したのです。
でも、もしかして2人はタイガース在籍時期が重なっていないんじゃないかなあと思って聞いたら「入れ違いですね」と米村さん。確かに、米村投手が戦力外を告げられたのは1997年10月4日で、中谷選手が1位指名を受けたドラフト会議は1997年11月21日。きれいにすれ違っています。
この事実をOB会の皆さんは誰ひとりご存じなかったことにビックリしました。前日に顔を合わせた時点で判明し、全員が「えっ!一緒にやってないの?」「てっきり重なっていると思っていた!」と驚くばかりです。さらに「会ったこともないの?」と聞かれ「はい、初めて会いました」と苦笑いの米村さん。
同じ質問をされた中谷監督も「電話では話しましたけど、きょうが初対面ですね(笑)」と答えたもので、それでよく引き受けてくれたと感謝する皆さんに、中谷監督は「それはもう、大変お世話になった先輩から連絡をいただきましたから」と。直接会ったことがなくても、そこには共通の阪神OBの存在があります。
仲を取り持ったのは…
米村さんはまず、1つ下の井上貴朗さん(46歳・1993年ドラフト5位)に電話をすると、井上さんが「それなら山村の方が」と井上さんの1つ下である山村宏樹さん(45歳・1994年ドラフト1位)に連絡してくれました。
そういえば山村さんも、阪神時代は常に米村さんたち先輩と一緒にいましたね。私はよくお菓子をもらいました。イチゴ味のチョコとか。それも「はい、あげます」と手渡してくれて(笑)。可愛らしかったなあ。って、脱線してすみません。
山村さんが「仁は知らない番号だと電話に出ないので」と前もって連絡してくれ、米村さんは「かけたらすぐ『はい!聞いています。喜んで行かせていただきます!』という返事だった」と笑顔。中谷さんにとっては井上さんも山村さんも阪神の先輩、特に山村さんとは楽天でも一緒でしたから、話はとんとん拍子です。OB会における米村先輩の顔も立ちましたね。
濟々黌との合同開催
ちなみに“招待試合”というのは文字通り県外のチームなどを招待して、非公式の練習試合を行うもの。よって交通費や宿泊費などはすべて招く側、つまり今回は熊本学園大付属が持ちます。単独開催となれば、かなりの額でしょう。そこで、ちょうど創部120周年というタイミングだった済々黌高校野球部に声をかけたそうです。
同じ熊本市ですから監督同士も、両校野球部OB会もよく知っている間柄。米村さん自身は済々黌の前監督である池田さんが中学の先輩に当たるので、話はしやすかったかもしれませんね。うまい具合に周年も重なって2校による合同開催が決定。ここまで、とても順調に進んでいました。
しかし60周年である2020年は新型コロナの影響で、11月8日に予定されていた招待試合も延期を余儀なくされたのです。この事態に智弁和歌山は1年後の開催を快諾してくれたものの、ことしは夏に全国制覇してしまったから来てもらうのは無理かも…という熊本側の懸念をよそに、中谷監督は「喜んで行きます!」と二つ返事。
それと、せっかく九州へ行くならと中谷監督が考えたのは、宮崎商業高校との練習試合です。夏の甲子園で初戦(2回戦)の相手でしたが、部員らの感染により出場を辞退した宮崎商業と、この機会に対戦をと提案したものの、今回は残念ながら実現しなかったみたいですね。
秋季熊本大会でベスト4
試合前日に、私も熊本学園大付属野球部OB会の方々とお会いしました。会長は米村さんの1学年上の池本哲二さんで、在学時の米村さんについて「3年生のチームで唯一2年生の和樹がエースで4番だった」と言われます。また米村さんの2学年下、副会長の山本徹さんは「スーパースターでした!」と。
最速144キロで内角を攻め、1試合8死球という“武勇伝”もあれば、相手もなかなか打てないでしょう。ちなみに熊本学園大付属の成績は、ちょうど30年前に米村さんが3年だった春季熊本大会で準優勝したのが最高。夏はベスト8、秋は2019年にベスト4があり、ことしもそれに並んでのベスト4でした。
実はことしベスト4まで勝ち残った熊本学園大付属がもし準決勝で勝っていたら、今回の記念試合はできなかったのです。決勝進出の2チームが出場となる秋季九州大会は11月6日開幕なので、記念試合はさらに1年延期という可能性もあったわけで。
まあそういう延期なら嬉しいところですが、残念ながら10月9日の準決勝で学園大付属は秀岳館高校に敗れました。それで予定通り無事に開催できたという経緯です。
“1打席対決”の始球式
では、当日の模様をご紹介しましょう。スケジュールは9時から熊本学園大付属、12時20分から済々黌の試合が予定され、智弁和歌山はダブルヘッダー。スタンドには招待の約1200人だけでなく、一般の方も300人ほど来られたそうです。入場者は二次元バーコードを使った完全登録制にするなど、感染防止対策も万全でした。
招待されたのは、一塁側に熊本県の学童野球15チームの小学生が約300人。ネット裏にシニア、ボーイズ、中学校の野球部などでプレーしている中学生が約300人。その小学生と中学生の保護者の皆さんが同数くらいで、合わせて約1100人。加えて、熊本学園大付属と済々黌の野球部OBがそれぞれ約30人ずつという内訳です。
熊本市内だけでなく、遠くの阿蘇市、人吉市、八代市、また郡部からも来られていたとか。池本OB会長が「熊本県の野球少年にとって藤崎台は聖地なんですよ。ここで子どもたちに夢を与えられてよかった」と言われたように、試合前のシートノックを食い入るように見ていた子たち、外野からのバックホームに歓声を上げる子たち、みんな目が輝いていましたね。
それを伝えたら中谷監督は「バックホームで歓声?うちなんて、そんな肩ええヤツおらんのに。あ、青山がきょうは珍しく“ええのを”放ってきて、スタンドが沸いたかな?」と笑います。始球式の際、打席に立った1番センターの青山達史選手(1年)のことです。
この始球式、実は中谷監督の発案で、通常のセレモニーではなく『1打席対決』に変更されました。ピッチャーとバッターの勝負なので、打ち返すのもOKです。「始球式ってほんと面白くないでしょ?」と中谷監督。「プロはもちろん、彼らにも、ピッチャーライナーを打たないという技術はありますからね。1打席ならフォアボールでもいいわけですし」
そして結果はショートゴロ。中谷監督は「やられましたわ~1番バッター!それで試合が始まったら1打席目もまたショートゴロって。2アウトやん」と大笑いしたあと「その青山がきょう1本も打たんかったらアカンので、ちゃんと活躍しろよ!と思って見ていたんですけど。タイムリー打ってくれたからよかったです」とホッとしたような表情。
1打席対決で智弁和歌山の1番バッターを“打ち取った”のは、学付OB会長の息子さんで帯山中学校野球部1年の池本樟太選手でした。緊張しながらもマウンドでは笑顔が見られ、落ち着いた様子。ただ相手の青山選手の大きさには圧倒されたみたいですね。そうそう、ゴロをさばいたショートの守備もよかったと中谷監督は言っていましたよ。
雨に翻弄された2試合
1試合目は熊本学園大付属と智弁和歌山。前半はヒット数も得点も同じで、ほぼ互角の戦いだったと思います。ただ試合が始まって30分ほど経ったところで雨が降り出し、延々と本降りの状態が続きました。気温も低く、ぬかるんだグラウンドで選手は大変だったでしょう。カッパと傘でしのぎながら、それでもスタンドに座って見守るお客様もしかりです。
2時間を過ぎて新しいイニングに入らないというルールで、途中の整備に時間を取られたりしたものの、何とか第1試合はギリギリ9回裏まで完走しました。しかし雨は止む気配すらなく、とりあえず昼休憩を取りつつ様子を見ることに。もしかしたら第2試合は無理かも…という話も出る中、智弁和歌山の中谷監督は終始「せっかくなのでやりましょう!」と前向きでしたね。
少しずつ小降りになってきた頃、開始に向けグラウンドの水を吸い取る作業が行われ、5回終了時のグラウンド整備と同様に熊本学園大付属と済々黌の選手たちが、力を合わせて取り組みました。池本OB会長によれば、スタンドで見ていた子どもたちは、両チームの選手が雨の中で頑張っている、この姿にも感動したそうです。
そして13時半頃、濟々黌と智弁和歌山の試合が始まりました。智弁和歌山は帰りの新幹線が決まっており、いったんホテルに戻って帰り支度をするため、本来なら15時に球場を出なければなりません。そうなると7回までできるかどうか。しかも初回から智弁和歌山が猛攻を見せ、かなり時間もかかっていたので5回までしかできないかも…という状況。
「9回までやりましょう」と神の声?
でも試合が始まってしばらく経った時、中谷監督は「ホテルに帰らず、ここで着替えてそのまま熊本駅へ向かいます。なので9回までやりましょう!」と提案しました。学付OB会の方が、既に荷造りの済んだ智弁和歌山チームの荷物をホテルへ取りに行き、球場のロッカールームで着替えて帰るというのです。
とはいえ試合終了のリミットは15時40分か、45分というところでしょう。しかし試合が進むうちに中谷監督がどんどんリミットを延ばし、ついに16時まで続けると宣言。さらには9回裏までやり切る!と。スタッフの皆さんは、とても有難いけど17時の新幹線に乗れるのかとドキドキハラハラでしたね。
中谷監督の宣言通り9回まで行われ、終わったのが16時過ぎ。もう相当あわてなくてはならない時刻ですが、雨で試合前にできなかった済々黌と智弁和歌山の記念撮影もしっかり行いました。そこでも中谷監督自ら、選手に“盛り上げ”指令を出し、選手も応えて笑いがいっぱいの写真となっています。
そこからのバタバタぶりはもう、といっても焦っているのは主催者側とバスのドライバーさんだけで、智弁和歌山は監督も選手も普通でした。さすがの平常心?でも新幹線にはちゃんと間に合ったようで何よりです。
池本OB会長は「時間のない中で9回までやってもらって、お風呂にも入らず帰るなんて…」と感激しきりでした。始球式のアイデアも含め、中谷監督を絶賛です。そして「自分がコーチをしているシニアのチームにもすごく感謝されたし、各方面の反響はすごかった!済々黌の方々も喜んでおられ、我ながら満足しています。やってよかった」と池本会長。本当にお疲れ様でした。
熊本学園大付属の坂本博之監督は「対戦した選手たちに聞くと、力が全然違うと答えました。スイングスピードも、体格も、ピッチャーのボールの強さも。ただ、スコアは完敗だけど全国を狙う1つの目安になる、と。この冬の頑張り次第で自分たちも目指せるんじゃないか、と言っています」とおっしゃいました。手応えを感じたのでしょう。効果あり、ですね。
タイガースOB監督との交流
最後に、智弁和歌山・中谷仁監督の話をまとめてご紹介します。
今回、間を取りついでくれた山村さんも2014年から母校・甲府工業高校で非常勤のコーチを務めているので「練習試合やってよ」と打診されたという中谷監督。また「麦倉洋一さん(50)が監督の佐野日大とも練習試合を予定していたんですけど、うちが選抜に出た段階でなくなりました。だいだい関東の学校は春に関西遠征することが多いので」とのこと。
元阪神という縁で声をかけてもらうことも多いそうで、浪速高校監督の遠山昭治さん(54)からは「電話が来たり、会うたびに『試合やってよ』って。というか『なんでやらへんねん』って怒られる(笑)」のだそうです。それが、いつも急すぎて無理だったり、なかなか予定の空いていない6月だったりして、まだ実現していません。
「あと中村良二さん(53)が監督の天理高校とも、試合を組もうとするけどなかなか合わなくて。でも、しょっちゅう会ってお世話になっています。ただ僕はタイガースで一緒にやっていないんですよ。それこそ米村さんと同じタイミングで辞めはったのかな?あとはトレーニングコーチだった前田健さんに来てもらったこともありますよ」
アマチュア指導に必要な資格を回復して、母校の監督やコーチを務めるプロ野球OBも多く、これからますます交流が広がっていきそうですね。
プロ時代にやってきたことと「基本的に野球の考え方、見方は変わらない」と中谷監督。「監督として何かコメントを求められる時とか、振る舞いとかで、ふと『この場面は星野(仙一)さんならブチ切れてるやろなあ』とか、『野村(克也)さんやったら、こういうこと言うてたやろな』とか、岡田(彰布)監督なら、原(辰徳)監督なら…と、監督の立ち居振る舞いがフラッシュバックみたいに浮かんでくるのはありますね」
星野監督には人間力と洞察力を、野村監督には野球頭脳の高さを見込まれ、いい指導者になると太鼓判を押された中谷監督。選手時代にそれを見抜いた星野監督、野村監督もさすがですね。
組織で長く必要とされる人に
監督として一番大切にしていることを聞くと「やっぱり鳥谷にしても、球児にしても、能見にしても、(岡崎)太一にしても、長くやってきた人っていうのは結局、ナイスガイというか人間性の部分やと思うし。野球人である前に一社会人であり、ひとりの人間として本当に尊敬できる選手が活躍し、長く仕事をして組織に必要とされるというのを阪神、楽天、巨人と3球団で見させてもらった」と言います。
「僕は一流になれなかったんだけど、そういうピッチャーと一緒に練習や試合をさせてもらったことを伝えていきたい。それが大事だったんだよ、と。そのために野球の技術ももちろん細かいことを教えるんですけど、立ち居振る舞いや発する言葉、所作の一つ一つっていうのを大事にしたいなと思いますね」
「智弁和歌山からのプロ1号でありながら、なかなか目立った活躍もできずにプロ野球界を去ってしまって…智弁和歌山の選手は活躍しないなんて言われる時期もあったぐらい。それは僕を指してのことだなと思うので、そういう部分ではプロに行く可能性、チャンスがある選手に対しては、自分で意識づけしていることがあります」
「僕が言うのもなんですけど、プロに入ってからの心構えや、こういうところを大事にしないと1軍では出られないぞということを早く、高校の時から教えていくのは意識しています。また、大学や社会人へ進む選手に関しても、次の組織で必要とされる人間になるには、こういうところを押さえておかないとダメだよねっていう話をするようにはしていますね」
今の子たちに望むこと
環境も、それぞれの性格も昔とは変わった?「変わりました。ただ高校球児の場合、目指すところは甲子園だったり、日本一だったり、プロ野球や六大学だったりと、そんなに変わっていないので通じる思いもある。そんなに簡単なことじゃないよ、というようなことも話していけば、素直な子が多いのでわかります」
「素直な子が多いゆえ、話をする側が本質からずれたことを言っちゃうと、ずれた感覚のまま受け取ってしまう。僕らが発する言葉は本当に大事だなと思いますね。また素直で優しい子が多い世の中だから、もうひとつヤンチャになってほしい部分もあって。勝負事なんでね。ここはオレが絶対決めてやるねん!っていう気持ちでいってほしいんだけど」
周囲からの目が怖いのかも。自分がどう見えるのか、どう思われるのかと思ったら動けなくなるんでしょう。
「そうなんですよ。今、若い子は誹謗中傷に怯えているから自分の意見があっても、どう思われるかばかり気にしている。だから常々、自分が正しいと思ったことを行動に移しなさいと言っています。その行動がもし間違っていたら、また考えを改めればいい。でも何も思わない、何もしないという人間になっちゃダメだよって、常に言っている。そこはすごく大事にしているつもりです」
この言葉は、いい歳になった私の心に沁みました。中谷監督は選手たちのお父さんですね。「まあ寮で一緒にいますしね。妻と2人、寮でずっと子どもたちと触れ合っていたら、野球以外のことなどもしっかり話す時間はあるので」
寮は中谷監督が就任してから作ったんですよね。じゃあ奥さんは寮母さんの役割?「そうです」。うわ~奥さんを尊敬しますわ!「いや僕も尊敬しています。もう、むちゃくちゃ大事にしたいです。ほんま頭が上がりません」。たたみかけるように言っていましたよ(笑)。でも、こういう気持ちが一番大切です。大人の間の空気は子どもたちにも伝わりますからね。
新庄ビッグボスの逸話
ところで、阪神時代に一緒だった新庄剛志さん(49)が日本ハムの監督に就任されました。どうですか?「楽しみでしょうがない。(同期の)井川とお寿司を食べに連れていってもらったりした記憶があって」。井川慶さんは、先輩が止めなければ果てしなく食べていたとか。「そう、ほんまに80カンとか食べて。それも廻る寿司とは違いますよ(笑)」。80カン!これはもう伝説ですね。
「楽しみでしかない。ワクワクする気持ちってのは久しぶりですね。新庄さんは賢いから。計算というか、賢くないと無理です。あのコメントを見たら、どこにも“引っかかる人がいない”言葉しか発してない。たとえばコメントを聞いた人が、“おい、それはどういうことやねん!”と引っかかるような内容は、360度どこを見てもないんですよね。ほんと、むちゃくちゃ賢いです」
なるほど、監督就任会見でも驚くようなことを言っていましたが、誰かに迷惑をかけたり不快感を与えたりしない配慮がなされているわけですね。それが計算なのか、自然にできてしまうのか、わからないのも魅力?
「極端な話、会った人がイヤにならないんですよね。僕なんかが言うのはあれですけど、中学校の野球大好き少年がそのまま大人になったような。むちゃくちゃ野球が好きで、むちゃくちゃ人を信用して信頼して、という。語弊があったら申し訳ないですけど、本当に可愛いというか、みんなに好かれる人。その中にこうパッと“切れる”とこがあるので、楽しみでしかない」
そして中谷監督は「うちのOBも日本ハムに、1年目が終わった細川(凌平)というのがショートでいるんですよ。あいつを何とか。細川が背番号1をもらえるような選手になってほしい!って、あのコメントを見ていてそう思いましたね」と期待のコメント。新庄監督なら、言葉だけじゃない本当の“横一線”もありそうで、それもまた楽しみです。
「俺のこと五十嵐さんって呼べよ」
また新庄さんの太っ腹、気前のよさを表す伝説は数々ありますが、米村さんはこんな話をしてくれました。「僕らもよく連れて行ってもらったんですけど、新庄さんがご飯の途中で先に帰っちゃって…。えっ!と思ったら支払いは既に済んでいるという、そんなことも何度か」
かっこいいですねえ。でも先に帰る?そういうのが何度か?不思議な動向です。また「寿司とか焼肉とか、よく連れていってもらった」という中谷監督が披露してくれた、新庄さんらしい奇想天外なエピソードもご紹介しましょう。
「誰がどう見ても新庄さんやとバレるのに、ご飯屋さんへ行っても、お酒を飲むとこへ行っても『俺のこと、きょうは五十嵐って呼べよ』って言うんですよ。背番号が5やったから五十嵐ってことだと思います。それで『俺はきょう五十嵐さんだからな。新庄って名前がインパクトあってバレるから、五十嵐って呼べよ』と」
いやいや、当時はあそこまで襟を立てていなかったけど、それでも名前より本人のインパクトでバレバレでしょう。「でも、それで五十嵐さん、五十嵐さんって呼んでいました。それがむちゃくちゃ印象に残っていますねえ!なんで五十嵐やねん!と思いながら(笑)」。真面目に呼んでいた後輩たち…想像すると吹き出しますね。
中谷監督に“惚れた”一日
新庄さんのことを“会った人が誰もイヤにならない”と評していましたが、この熊本遠征においての中谷仁という人物も同じ。今回の行事にかかわった皆さんが、その人柄や気遣いに触れて中谷監督のことが大好きになったはずです。済々黌の荒巻智弘監督もおっしゃいました。「また会って話をしたいと思わせてくれる人」だと。これからまた注目も期待もされるでしょう。
全国優勝という肩書にプレッシャーはありますよね?「もちろん。そこはシビアに。うちは野球部だけではなくて全校応援と、応援団、チア、ブラスバンドっていうのが僕らの背中に乗っかってきてくれている、という思いでいつも戦っているので。そこで、甲子園に連れて行けない秋を迎えたっていうのは…自分に責任がある」
10月2日に行われた秋季和歌山大会の準決勝で和歌山東高校に敗れ、近畿大会には進めませんでした。来年のセンバツに行けないであろう状況で迎えた秋、ということですね。
すると中谷監督は突然「優勝なんて目指しません!」と言うので、え?と思ったら続きがありました。「…なんていうのは、僕らにはありえないことです。常に甲子園を目指しています!」とニヤリ。なるほど、新庄監督の言葉の引用でしたか。
中谷ビッグボス、頑張ってください!と言ったら、すぐに「和歌山のリトルボスでお願いします」と返されました。この瞬発力とひらめき、関西人ならではの感性も中谷監督の魅力。これからも応援しています。
<掲載写真は筆者撮影>