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イスラーム過激派の食卓:アンサール・イスラーム団は暢気に犠牲祭を楽しむ

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
(写真:ロイター/アフロ)

 2023年6月28日は、イスラーム教徒(ムスリム)にとって年に一度のマッカ大巡礼の期間が終了し、犠牲祭を迎えた大切な日だった。この日は、マッカだけでなく世界中のムスリムが犠牲を捧げ、その肉を隣近所とも分け合ってごちそうを楽しむ日だ。ところが、今期の犠牲祭では、そうした気分をぶち壊しにしかねない事件が発生した。犠牲祭と同じ日に、スウェーデンのストックホルムのモスク前で、コーランの写本を燃やす示威行動があり、世界的に大きく報じられたのだ。

 当然ながら、コーランの写本焼却には各国の政府や機関から抗議と非難の声が上がった。アラブ諸国の政府の抗議はなんだか定式化しており、「今般のような行為を許したスウェーデン政府が悪い」との趣旨だ。示威行動開催の申請にはコーランの写本を燃やすことが記載されていたそうなので、スウェーデン当局にはこれを許可しないという選択もあったらしい。ただ、この種の示威行動が直ちに罪に問われるかどうかは難しいところだ。また、アラブ諸国やムスリムが多数を占める諸国で、他宗教の象徴や信仰実践が十分敬意を払われているか、と問われた際に「そんなことはない」という答えもたくさん返ってくることだろう。もっとも、アラブ諸国の反応は、日ごろ自由や民主主義や人権を(頼みもしないのに)親切に指導してくださるスウェーデン政府に対する意趣返しでもあるので、各国政府はこれを政治問題として最大限活用することになるだろう。

 しかし、筆者の立場で気にしなくてはならないのは、今般のコーラン写本焼却事件がイスラーム過激派が何か攻撃や扇動を起こす口実になりかねないことだ。イラクでは、民兵を擁する政治勢力諸派が大規模な抗議行動を呼びかけ、29日にはデモ隊の一部が在イラク・スウェーデン大使館に突入した。イラクでの反応が特に激しいのは、今般コーランの写本を焼き払った人物がイラクからスウェーデンに移住した無神論者を自任する人物だったからで、一部ではこの人物の引き渡し要求も出ている。今のところ、イラクでの反応は、国政や外交に一応責任の一端を負う立場の政治勢力が主導しており、これらの統制から大きく逸脱するような行動は発生しにくい。ただ、面倒なのは、「スウェーデンでイラク人がコーランの写本を焼却した」ことに対する反応が、スウェーデンやイラクの領域内だけで起こるとは限らないというところだ。「まったくあらぬところで」外交団や企業が攻撃されることも十分ありうるし、それに邦人権益が巻き込まれる可能性もゼロではない。

 そんな筆者の気苦労をよそに、今般の事件を受けたイスラーム過激派の反応は低調そのものだ。そもそも、最近は諸派の広報機能が衰え、時事問題に的確に反応できなくなりつつある。また、諸派の構成員の暮らしぶりや前線の模様の画像や動画の発信も減少し、「イスラーム国」は今期の分については断食の折も犠牲祭の折も、各地の「州」の食事風景の発信をやめてしまった。6月30日になって、アンサール・イスラーム団が発信したものと称する「アッラーの言葉を至高のものにするための戦いこそがジハード云々」との短いメッセージが出回ったが、このメッセージは、これを同派の公式文書とみなす証拠を備えていない。アンサール・イスラーム団は、その前日に構成員が犠牲祭を楽しむ様子の画像を複数発信しており(こちらの画像群は公式の作品)、スウェーデンでの事件に迅速に反応して何か攻撃や扇動をするよりも、犠牲祭の休暇を楽しむことの方に熱心だ。

2023年6月29日付アンサール・イスラーム団。犠牲祭を楽しむ模様。
2023年6月29日付アンサール・イスラーム団。犠牲祭を楽しむ模様。

2023年6月29日付アンサール・イスラーム団。犠牲祭のごちそう。
2023年6月29日付アンサール・イスラーム団。犠牲祭のごちそう。

 アンサール・イスラーム団は、これまでも幾度か紹介した通り、元々はイラクで活動していたイスラーム過激派だ。同派の創始者は、ノルウェーに逃れてそこから活動を指導していた時期があり、その点でもアンサール・イスラーム団が北欧に何か所縁があっても不思議ではない。また、2005年頃はイラクで活動するイスラーム過激派の中で最も凶悪な団体として知られ、邦人殺害事件も引き起こしている。だが、現在のアンサール・イスラーム団は、シリアの北西部の一角で、シャーム解放機構(シリアにおけるアル=カーイダ)の統制下でたいした軍事行動もせずにのんびり暮らすだけの存在になった。現在、イスラーム過激派諸派は、眼前のごく小さな政治的・軍事的成果や、組織そのものの生き残りに精一杯の状況で、国際的に反響があるメッセージの発信や作戦行動ができなくなった。これはこれで長年の対策の成果であり、今般の件も含め、イスラーム過激派が「たいしたことができずに」、このまま消えてくれた方がいいのは間違いない。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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