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斎藤道三は娘婿の織田信長を「大うつけ」と思っていたが、認識を改めた瞬間

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
斎藤道三。(提供:イメージマート)

 今やリモート会議も珍しくなくなったが、実際に会って話すことも重要である。斎藤道三は娘婿の織田信長が「大うつけ」であるという噂を信じていたが、実際に面会して認識を改めたので、その逸話を紹介しよう。

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 斎藤道三は織田家との同盟の証として、織田信長に娘の濃姫を嫁がせた。しかし、信長は「尾張の大うつけ」と噂されていたので、道三はそれが事実なのかを確かめるため、信長と面会したいと考えた。

 両者で日程や場所を調整した結果、会見の場所は美濃と尾張の国境の木曽川沿いにあった聖徳寺に決定した。2人が面会した様子は、『信長公記』に詳しく記されている。

 道三は信長よりも早く聖徳寺に到着すると、じっくりと信長を観察するため、寺近くの町屋に潜んで待っていた。やがて、道三の前に姿をあらわした信長の姿は、噂通りのやんちゃぶりだった。

 信長の姿は腰に荒縄を幾重にも巻き、片肌を脱いでいた。さらに、輿に火打石や瓢箪などをぶら下げ、馬に横乗りするという異様なものだった。しかし、道三が目を奪われたたのは、信長の引き連れた槍隊・弓隊・鉄砲隊の見事さである。彼らの装備は、道三の家来よりもはるかに勝っていた。

 いざ信長が会見に臨むと、道三は驚愕した。信長はだらしない姿を改め、見事な出で立ちで登場したのである。しかも、信長の立ち振る舞いは立派なもので、あまりの落差に道三はびっくりしたのである。

 家来の一人の猪子兵介は、帰途に着いた道三に「信長は噂どおりの「大うつけ」だ」と述べた。これに対して道三は「やがて子孫は、信長の家臣になるだろう」と冷静に分析し、信長の非凡な才能を見抜いたのである。

 この会見によって、2人の関係はますます緊密になったという。弘治2年(1556)、道三は実子の義龍と対立し抗戦に及んだ。形勢不利で死を覚悟した道三は、戦死の前日に遺言状を残した。

 その内容は「信長に美濃国を譲る」というものだった。むろん、この話は実現しなかったが、のちに信長は斎藤氏を攻め滅ぼし、実力で美濃国を配下に収めたのである。

 道三と信長の面会の話は、どこまで本当なのかわからない。とはいえ、信長の才覚を示す有名なエピソードの1つである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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