それでも上杉謙信は許した。謙信に逆らった3人の武将とは?
今でも裏切り者がいても、許すケースと許さないケースがある。上杉謙信も裏切られることがあったが、水に流して許すことがあった。そのうち3人の武将を紹介することにしよう。
◎北条高広
もともと高広は長尾氏に仕えていたが、天文23年(1554)に武田信玄に通じて、謙信に叛旗を翻した。しかし、翌年に高広は降伏し、謙信の奉行として帰参を許されたのである。その後、高広は厩橋城(群馬県前橋市)の城主となった。
永禄10年(1567)、高広は北条氏康に通じて、謙信に叛旗を翻した。ところが翌年、謙信と氏康は和睦した(越相同盟)。高広は苦境に追い込まれたが、北条氏の仲介もあり、謙信のもとに戻ることになった。高広は、2度も謙信から離反したのである。
◎佐野昌綱
昌綱は唐沢山城(栃木県佐野市)に本拠を置く武将で、地理的に謙信と北条氏に挟まれるという苦しい立場にあった。昌綱は北条氏に従っていたが、謙信が関東に攻め込むとこれに味方し、北条氏の居城の小田原城(神奈川県小田原市)を攻囲した。
以降、昌綱は謙信と北条氏という巨大な勢力の狭間にあって、両者に対して、和睦と離反を繰り返した。一連の唐沢山城では何度も謙信の攻撃を受けたが、撃退することに成功した。謙信は容易に城を落とすことができず、結果的に許さざるを得なかったのだろう。
◎本庄繁長
繁長は謙信に従っていたが、永禄11年(1568)に反乱を起こした(本庄繁長の乱)。繁長は謙信の命により、長尾藤景・景治兄弟を殺したが、恩賞が与えられなかった。そこで、繁長は武田信玄に通じ、謙信に叛旗を翻したのである。
両者の攻防は、相譲らず長期化したが、繁長は謙信の猛攻に耐え抜いたのである。翌年になると、繁長は蘆名盛氏を介して降伏し、人質として子の千代丸(のちの顕長)を差し出した。こうして繁長は許され、再び謙信に仕えることになったのである。
※謙信はたびたび改名しましたが、煩雑さを避けるため、表記を謙信で統一しました。