無念の思いを抱きつつ、この世を去った一条天皇の最期とは?
今回の大河ドラマ「光る君へ」は、一条天皇が亡くなった場面が描かれていた。一条天皇は無念の思いを抱いていたと考えられるが、その最期について考えてみよう。
一条天皇の病気が確認されるのは、寛弘8年(1011)5月下旬のことである。それは『日本紀略』、『御堂関白記』、『権記』といった記録に見えるが、病名までは書かれていない。病気に罹った一条天皇は、譲位することを考えていた(『栄花物語』)。
当時、医者はいたものの、現在のような高度な医療技術があったわけではない。読経により、一条天皇の病気の平癒を願った。また、さらに大赦(死罪などの重罪を免除すること)を行うことで、一条天皇の病気の快復を願ったのである。
死期が迫った一条天皇は譲位を考えるとともに、次の皇太子を敦康親王にすべく、藤原行成に諮問した。一条天皇にすれば、敦康親王が第一皇子なのだから、皇太子にしても問題ないと考えていた。それは、常識的な判断といえるだろう。
ただし、行成は道長の意を汲んでおり、それは一条天皇が期待する答えではなかった。そもそも、次の皇太子は外戚かつ重臣の道長の孫、つまり敦成親王を選ぶべきであって、たとえ敦康親王が第一皇子であっても、それは関係ないという回答だった。
もし、一条天皇が敦康親王を気の毒に思うのならば、年官、年爵や年給の受領を賜い、家司を置けば事足りるとも述べた。その結果、皇太子になったのは敦康親王ではなく、敦成親王だった。一条天皇は、道長の意に沿った決断をしたのである。
敦成親王を皇太子に据えた件については、藤原彰子(一条天皇の中宮。道長の娘)が非常に立腹したと伝っている。彰子は長く敦康親王を養育してきたので、相談もなく決定したことを許せなかったのである。とはいえ、彰子にはどうすることもできなかった。
一条天皇が亡くなったのは、寛弘8年(1011)6月22日のことである。新天皇の三条天皇が即位したのは、同年6月13日のことだった。