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上月城戦い。なぜ羽柴秀吉は女・子供を串刺しにしたうえ、残酷にも磔にしたのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣(羽柴)秀吉。(提供:アフロ)

 今も各地で戦争が行われており、人の道を踏み外したような行為が行われている。羽柴(豊臣)秀吉は上月城の戦いで、女・子供を串刺しにしたうえ磔にした。その理由について、考えることにしよう。

 天正5年(1577)、織田信長は毛利氏に戦いを挑むべく、秀吉に中国計略を命じた。その最初の攻防の地となったのは、上月城(兵庫県佐用町)である。上月城を守備していたのは、毛利方に与した赤松氏の流れを汲む武将だった。

 同年11月、播磨に攻め込んだ秀吉は、黒田孝高の活躍で福原城を落とした。その後、秀吉は福原城から約4キロメートル離れた上月城に迫ると、毛利方の宇喜多直家の軍勢を打ち破ったのである。

 上月城に迫った秀吉勢は、城を完全に攻囲して落とした。落城後、秀吉は敵兵の首を次々と刎ねるよう命じた。同時に毛利方への見せしめとすべく、女・子供200人余を播磨・美作・備前の境目で子供を串刺しにし、女を磔にして並べ置いたのである(「下村文書」)。

 『信長公記』によると、上月城中の者が大将の首を切って秀吉のもとに持参し、「残党の命を救って欲しい」と懇願したという。秀吉は上月城主の首を安土城の信長に進上し、その目に懸けたのである。

 その後、秀吉は上月城に立て籠もる残党を悉く引き出し、備前・美作の両国の境目に磔にして、ことごとく懸け置いたのである。ここには女・子供のことが書かれていないが、含まれていたと考えられる。

 当時、合戦が起こると、城の周囲にいた農民らの非戦闘員は戦火を逃れるため、城内に逃げ込むことがあった。落城後、城内の戦闘員だけでなく、たまたま逃げ込んでいた女・子供も巻き添えを食った可能性があろう。

 秀吉がこれだけの残酷な所業を行ったのには、いくつかの理由が考えられる。一つの理由としては、毛利方に戦意を喪失させること、また毛利方に与している武将にも同様の効果を与えるためだったと考えられる。

 それは、信長に逆らった者が悲惨な結末を迎えるという、強いメッセージでもあった。二つ目の理由としては、秀吉が信長への強い忠誠心を示すため、より過激な行動に出たということになろう。こうした残虐な例は、ほかにも見られるものである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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