Yahoo!ニュース

絶対マスクをしない! 金正恩氏が新型コロナウイルスを恐れぬ裏事情

西岡省二ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長
軍部隊を視察する金正恩朝鮮労働党委員長=3月13日、労働新聞

 新型コロナウイルスによる感染が世界規模で拡大するなか、北朝鮮国営メディアはこの2週間で4回、金正恩朝鮮労働党委員長の姿を公開した。いずれの写真でも、同行している朝鮮人民軍幹部らはマスクを着用しているのに、金委員長だけが鼻や口をさらけ出している。当局は住民にはマスク着用を強く求めているのに、金委員長だけが例外扱いだ。その背景にある事情とは……。

◇金委員長のウイルス感染防止策

 党機関紙、労働新聞は3月9日、一部住民がマスク着用を負担と考えたり、一部企業で従業員がマスクをせずに集会を開いたりしていると批判。「国や人々のことは眼中になく、自分のことだけを考える誤った観点だ」と戒めた。だが金委員長にはもちろん、この指摘は向けられない。

 韓国などでは、金委員長がマスクを使わない理由として「新型コロナウイルスを恐れない、超越した存在である点をアピールする狙い」「マスクを着用した画像は金委員長のカリスマ性を傷つける」「マスクをすれば、感染を怖がっている臆病者のようにみえる」などの分析があった。

 そもそも、金委員長の周辺には特別な措置が施されているようだ。

 指導部の事情に詳しい脱北者によると、北朝鮮では金委員長が現れる場所には徹底した防疫措置が施され、ウイルス感染が完全に遮断されている。徹底した検査を受けた幹部だけが、金委員長と同じ空間に立つことができる決まりだ。こうした事情を知っている金委員長はマスクを着用する必要がない。一方で、同行者がマスクを着用しているのは、金委員長に無用な心配をさせないための措置という。

 北朝鮮では、最高指導者の健康管理が最優先課題だ。「最高指導者が病気になるような隙を与えないことが、身の回りをする側近たちの最大の役割」(先述の脱北者)ということになる。

 それを実感させる場面が2018年4月の南北首脳会談の際にあった。金委員長が文在寅・韓国大統領と初めて会談する前、北朝鮮側実務者は入念に事前点検をしていたのだった。

 会談場では北朝鮮側ボディーガードが、金委員長が座ることになる机と椅子に噴霧器で消毒液を吹き付け、背もたれからアームレスト、椅子の脚まで入念に拭いていた。韓国側が準備した芳名録や宣言文の署名などに使うペンも入念に消毒した。ただ金委員長が実際にサインする際には実妹・金与正氏(現・党第1副部長)が差し出したペンを使うほど、対策は徹底していた。

◇北朝鮮の幹部病院

 では、北朝鮮の医療機関はどうなっているのか。一般に社会的地位によって利用できる病院は区別されている。

 最高級が「烽火診療所」。利用できるのは金委員長らロイヤルファミリーや、一部の高級幹部に限られる。その次に、中堅幹部らが使う「南山病院」「赤十字病院」などがある。

 北朝鮮は「新型コロナウイルス感染症がいまだわが国に入っていない」と主張し続ける一方で、ロシア側には検査キットを送るよう要請。ロシア側は2月26日の段階で、キット1500セットを寄贈している。国際赤十字・赤新月社連盟も同様に検査キットを送る方針。ただ、実際にキットを使って検査ができるのは烽火診療所だけ。つまり、感染が確認できるのも金委員長ら一部に限られているということなのだ。

 最高級病院の烽火診療所だが、そこの医療関係者は日ごろから、相当なプレッシャーを感じている。「指導部の序列30位ぐらいまでの幹部の治療をしたがらない。失敗したら殺されるから」(指導部に近い関係者)という厳しい環境に置かれているようだ。

 烽火診療所や南山病院などに薬品や医療器具を供給するのが朝鮮労働党科学教育部保健1局。2016年10月ごろ、北京に駐在する保健1局所属の医療行政当局者が家族とともに脱北して話題になった。

◇外国での治療

 一方、その烽火診療所でも最新の医療機器を完備しているわけではなく、高級幹部の多くが病気治療目的で外国に渡航している。

 例えば、2006年11月に金委員長の父金正日総書記側近の姜錫柱第1外務次官(当時)がモスクワ滞在▽2009年6月に金総書記側近の金永春人民武力相が中国滞在▽2014年1月には崔竜海党書記(当時)の息子がシンガポールの最先端病院で治療――など、その状況は現在も続く。特にシンガポールの病院で治療を受ける高級幹部は多い。

 外国からの医師派遣を受ける例も少なくない。金総書記が2008年に脳卒中で倒れた際にも、中仏両国から脳神経外科専門医が派遣され、仏の専門医が金総書記の手術を施すなどの例もある。

 ロイヤルファミリーのために、高額なドイツ製心臓治療機器や心臓病関連の研究書などが集中して平壌に運ばれたこともあった。先述脱北者によると、医薬品関連では、ロイヤルファミリーはドイツ製を好むという。「主要な幹部は、糖尿病、コレステロール、心臓病、高血圧などの肥満と関連した治療薬を多く必要とする」そうだ。

◇医療技術輸出

 新型コロナウイルス感染の有無にかかわらず、北朝鮮の医療は厳しい状況にある。

「北朝鮮では住民の栄養が足らないための疾病がたくさんある。医療は無償と言うが、薬もろくにないなかで、一般住民がどれだけの医療にかかれるのか。ともかく医療設備や薬を充実させていく必要がある」

 北朝鮮の事情に詳しい在日朝鮮人がこう指摘する。

 医師の待遇もよくない。「事務員に毛が生えた程度の給料しかもらえない。ただ医師には特典があって、患者から物をもらえる。制度的なものではないが、患者が家具工場幹部なら家具をたくさんもらえる」という。

 また北朝鮮にとって医療が外貨稼ぎの手段になっていたこともあった。北朝鮮指導部の事情に詳しい関係者によると、主にアフリカ諸国に医師を派遣し、医師1人当たり年間3万ドル程度を稼いでいた時期もあった。「本業よりもアルバイトのほうが儲かるらしい。本業以外にも10万ドルぐらいの収入があるようだ」(同関係者)。医師が5000人程度派遣され、1人が年間3万ドル稼ぐなら1億5000万ドルの外貨が稼げる計算となる。

 だが、北朝鮮医師が犠牲になる事件も起きた。2013年2月、ナイジェリアの病院で勤務する北朝鮮の医師4人中3人が何者かに殺害されたこともあった。

ジャーナリスト/KOREA WAVE編集長

大阪市出身。毎日新聞入社後、大阪社会部、政治部、中国総局長などを経て、外信部デスクを最後に2020年独立。大阪社会部時代には府警捜査4課担当として暴力団や総会屋を取材。計9年の北京勤務時には北朝鮮関連の独自報道を手掛ける一方、中国政治・社会のトピックを現場で取材した。「音楽」という切り口で北朝鮮の独裁体制に迫った著書「『音楽狂』の国 将軍様とそのミュージシャンたち」は小学館ノンフィクション大賞最終候補作。

西岡省二の最近の記事