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地震予知に初めて成功しそうだった91年前の北伊豆地震

饒村曜気象予報士
地震計による北伊豆地震の記録(石川県輪島測候所の記録)

北伊豆地震と揺れの記録

 今から91年前の昭和5年(1930年)11月26日4時3分に、伊豆半島北部の丹那盆地を中心としてマグニチュード7.3の北伊豆地震が発生しました。

 北伊豆地震は、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災以来の大きな地震ということで、世間の耳目を集めました。

 地震の被害は、人口7400名の韮山町(現在は伊豆の国市)で76名が死亡するなど、全国で272名が亡くなるというものでした。

 震源地付近では震度6の烈震(当時は最も強い地震)で、体に感じる地震(震度1以上)は、東北北部から中国地方までの広い範囲におよびました(図1)。

図1 北伊豆地震震度分布図
図1 北伊豆地震震度分布図

 地震の揺れは、石川県の輪島測候所など、各地にあった測候所等の地震計で記録されています(タイトル画像参照)。

 静岡県江間村(現在は伊豆の国市)の江間小学校に残されている「地震動の擦痕」も揺れの記録です。

 国の天然記念物になっている「地震動の擦痕跡」は、海軍払い下げの直径45センチメートルの魚雷(船舶攻撃用の兵器)で、重みと慣性で地震でも静止していた魚雷本体に、地面とともに動いた台石が傷を付け、地震計と同じ原理で北伊豆地震の揺れを痕跡として記録したものです(図2)。

図2 天然記念物「地震動の擦痕」
図2 天然記念物「地震動の擦痕」

被災地にビラ投下

 北伊豆地震が発生すると、静岡県の白根竹介知事は直ちに登庁し、被災地の現状を知り、被災住民を力づけるために実用化されはじめたばかりの飛行機を飛ばしています。

(被災地に投下されたビラ)

謹んで今回の震災をお見舞い御見舞申します

賑恤救護に就ては直ちに県は全幅の力

を傾倒して之に努力しますから御安心

下さい

 このビラを読んだ各地被災者は、救援事業が既に着々と進行しつつあることを知り、感激したといわれています。

 なお、文中にある「賑恤(しんじゅつ)」とは、貧困者や被災者などを援助するために金品を与えるという意味です。

 静岡県が飛ばした飛行機は、昭和3年(1928年)4月から始まった、海面付近を群れで移動しているマグロなどの位置を漁船に知らせる魚群探査事業のものです。

 そして、昭和5年(1930年)は魚群探査が本格的に始まった年で、飛行機から報告筒に漁群位置を示すメモを入れ、漁船に向かって投下するという方法に加え、帰着後に基地から漁船にあてて無線電話で放送がはじまった頃です。

 この事業は、立ち上がりから静岡県の政財界の大物である鈴木興平(鈴与)の援助をうけ、静岡県三保で飛行場を経営していた根岸錦蔵に委託していました。

 マグロ漁は飛行機の利用によって盛んになり、「ツナ缶」が静岡県の特産品となり、アメリカ等に輸出することで多くの外貨を稼いでいます。

 また、のちに三保飛行場と根岸錦蔵は、中央気象台三保観測所として飛行機を用いた高層気象観測や、北海道での皆既日食の観測、流氷の観測など先進的な仕事をしています。

地震と断層

 北伊豆地震は、断層と地震の関係が明らかになった地震です。

 震源近くでは、丹那トンネル(全長7.8キロメートル)が建設中で、多くの坑道が掘られていたため、地震によって断層がうなったかという詳しいデータが得られました。

 当時、東京と神戸を結ぶ東海道線は、小田原から三島の間は山地をさけて迂回し、御殿場を通っていました(現在の御殿場線)。

 しかし、人や物資の交流が盛んになるにつれ、東海道線の高速化が計画され、小田原から熱海を通って三島を最短で結ぶ新線工事が始まりました。

 丹那トンネルの掘削は大正7年(1918年)から始まりましたが、丹那断層付近で大量の出水があって困難をきわめ、本坑とは別に排水用の坑道を掘るなど、多数の坑道が掘られていました。

 これらの坑道は、北伊豆地震を起こした丹那断層の移動で食い違いや崩壊を起こし、3名が死亡するなどの被害がでています。

 結果的に坑道の被害は、断層の移動をはっきりと記録していたことになり、以後、地震と断層の関係についての調査・研究が進んでいます。

 丹那トンネルは、昭和9年(1934年)に完成しましたが、出入り口付近はほとんど完成していたときの北伊豆地震であったため、中央部をわずかにカーブさせての完成でした。

 問題がないほど僅かなカーブですが、東海道線の丹那トンネルには地震の痕跡が残っています。

 丹那断層は、伊豆の修善寺の東側の谷間から北へのびる約35キロメートルにわたる断層で、この丹那断層を境に、約50万年前にできた地層の東側が北へ1キロメートルずれています。

 これは、北伊豆地震程度の地震が1000年に1回(50万年で500回)おき、その都度、2メートル程度動いたためと考えられています。

地震予知

 昭和5年(1930年)は、伊豆の伊東地方で2月13日から小さな地震が多数発生しています。

 震源の深さは10キロメートルより浅く、火山性の地震といわれた伊豆群発地震は8月末に終わっています。

 しかし、11月7日になると、伊東群発地震の北西のほうで、別の群発地震が起き始めています。

 このため中央気象台(現在の気象庁)では、11月17日と18日に現地調査を行い、飛行機による詳しい観測を行おうとしていた11月26日の朝、北伊豆地震が発生しています(図3)。

図3 中央気象台が大地震を予知したことを伝える昭和5年(1930年)11月27日の東京朝日新聞
図3 中央気象台が大地震を予知したことを伝える昭和5年(1930年)11月27日の東京朝日新聞

口惜しがる気象台

大地震を予知して準備中にこの災厄

今回の地震については気象台では十数日来の地震頻発の模様より見て既に危険性ある事を認め去る17日には国富技師自ら今回の最激震地帯たる北伊豆即ち丹奈、韮山、浮橋方面を2日に渉って出張調査した結果、いよいよその憂ひを深めるに至り、岡田台長も容易ならぬ事とし極秘裏に静岡、神奈川両県知事並に内務部長等と慎重協議し、この方面に大々的に周密な観測を行って万全の策をとるべく震源地を囲む韮山、三島、湯河原、網代の4か所を選定し、25日夜には付近測候所長とも協議の結果、26日朝右地方に観測機をもって行く手はずのところへ不幸予想よりも早くあたかもその朝遂にこの大地震突発を見たもので、気象台でも返す返す残念がっている。

   出典:昭和5年(1930年)11月27日の東京朝日新聞

 あと、半日地震の発生が遅かったら飛行機などを用いた地震前の強化観測が行われていたのですが、その時に、何か地震の前兆現象を見ることができたのでしょうか、できなかったのでしょうか。

 今となっては分かりませんが、観測を強化して異常現象をすばやく把握し、地震の発生を予測しようとする試みは、現在の試みと同じです。

 他の地震に比べ、前兆現象が非常に多い北伊豆地震は、はじめて地震予知に成功しそうだった地震ということができるかもしれません。

タイトル画像の出典:中央気象台(昭和6年(1931年))、北伊豆地震第二報告、検震時報。

図1の出典:饒村曜(平成24年(2012))、東日本大震災 日本を襲う地震と津波の真相、近代消防社。

図2の出典:饒村曜(平成22年(2010年))、静岡の地震と気象のうんちく、静岡新聞社。

図3の出典:東京朝日新聞(昭和5年(1930年)11月27日)

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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