近隣トラブル解決センターが日本に、ある時、ない時。 その1・ある時(フィクション編)
騒音問題総合研究所では、我が国での近隣トラブル解決センターの必要性を訴えてきました。ここでは、近隣トラブル解決センターがある時とない時の状況を具体例(犬の鳴き声トラブル)で紹介します。少し長くなるので2回に分けています。その1は「ある時」ですが、現実には我が国に近隣トラブル解決センターは存在しませんので、これはフィクション編となります。その2の「ない時(ノンフィクション編)」は、次回の掲載です。では、始めましょう。
2025年のK市では
岡崎雅彦(仮名)は、放送局の専属ピアニストとしてピアノ演奏や編曲の仕事をしていた。家で仕事をすることが多かったため、出来るだけ静かな環境をということで、市街地からすこし離れた山近くの地に家を新築し移り住んだ。
その土地は隣よりやや高くなっており、家の窓からは隣の庭が見渡せた。隣家の庭には、中型の雑種の犬が飼われていたが、鳴き声も殆ど気にならない程度であったため、静かに仕事に集中できるものと考えていた。しかし、ある時から状況が一変した。
隣の犬の鳴き声は1時間も2時間も続いた。庭に放置されっぱなしの寂しさからなのか、ヒステリックに鳴き続けるその声は、こめかみを金具で締め上げられるような、キリキリとした痛みまでもたらした。もう仕事どころではない。ナタでも持って飛び込んでゆきたいような、胸が焼けつくような怒りがこみ上げてきた。
「なんで、犬を鳴かせっぱなしにするんだ。何をやっているんだ、一体」
岡崎は、怒鳴りつけてやりたい一心で玄関に向かった。
ドアのノブを握ったその時、隣家の近藤と自分が道路で取っ組み合って争っている姿が目の前に浮かんだ。その瞬間、今までの興奮が自分の中で急激にしぼんでゆくのを感じた。
「どうしようか」、迷う気持ちの中で、ふと、近隣トラブルを無料で解決してくれる市のセンターができたというニュースが、テレビで流れていたのを思い出した。
「電話してみるか」、そう呟いた時、重い荷物を誰かに預けてしまったような、なんだか不思議な解放感が少しばかり湧いた。
早速、市役所の市民相談室へ電話を掛けて職員に尋ねてみると、「近隣トラブル解決センター」という名称であり、明日にでも連絡してみるようにいわれ、電話番号を教えてくれた。市の外郭団体で、やはり費用は無料とのことであった。市からもセンターへ話をしておいてくれると言うので、住所と名前を告げて電話を置いた。
翌日、解決センターへ電話をすると、ケースマネージャの山本という人が応対にでた。事情を話すと、山本は、「市のほうから連絡は受けております。大きなトラブルになる前に解決センターへご連絡を頂き、有難うございます」とお礼をいった。
苦情の処理を依頼しようと電話したのに、思いもよらずお礼を言われ、岡崎はすこし面食らった。役所の横柄な態度とは明らかに異なる、丁寧な応対であった。何だかうまく事が運びそうな小さな期待が沸き、重かった気分がすこし軽くなった。
聞かれるままに、トラブルの状況や相手の住所・氏名などを話すと、問題解決のための話し合いの場をすぐに準備するので、相手との直接的なやり取りは控えること、話し合いは調停者を交えて当事者同士が同席して行われること、この調停が全くの無料であることなどが説明された。
近隣トラブル解決センターにて
数日後、解決センターの調整で、近藤との話し合いの場がもたれる事になった。近藤の説得にはかなり苦労したようであるが、「このままこじれて裁判にでもなったら、それこそ後々大変ですよ」という一言が決め手になり、渋々参加することになったようだ。
解決センターは、市街地から車で15分ぐらい走ったところにあった。昔、小学校だった建物だということで、あちこちに落書きなどの名残りもあり、何か懐かしい思いにさせられ、岡崎は少し緊張がほぐれた。
受付をすませて暫く待つと、60歳を少し過ぎたように見える白髪の男性が現れた。岡崎の名前を確認した後、本日の話し合いを担当する沢口ですと軽く自己紹介をし、そのまま調停室に案内してくれた。
2階奥にある元教室と思われる広めの部屋に、大きな正方形のテーブルが置かれ、そこにもう1人、やはり調停員だという25、6歳ぐらいの青年がいた。近藤も既に着席しており、岡崎と近藤は2人がそれぞれ向かい合う形で着席した。
老齢の調停者が、穏やかな表情で両方に軽く会釈をし、ゆったりとした口調で、まず話し合いへの参加の謝意を述べた。
「本日はこの話し合いの場にご参加頂き、有難うございました。お二人とも仕事でお忙しいなか、貴重なお時間を割いて頂き、このような話し合いの時間をつくって頂いたことに心より感謝いたします。私は、今日のお二人の話し合いのお手伝いをさせて頂くことになりました調停者の沢口でございます。」
これに併せて、もう1人の青年も立ち上がって自己紹介を行った。
その後、調停者の沢口が注意事項などの説明を始めた。
「最初に、ここでの話し合いについての基本的な留意点を少し説明させて頂きます。言うまでもないことですが、今日は話し合いをするために集まったのであり、喧嘩をするために来たのではありません。ですから、お互いが自分の考えていること、感じていることは自由に思う存分お話し頂くことは構いませんが、相手の話を遮って勝手に喋ったり、相手をののしったり、攻撃的な発言をすることはおやめ下さい。くれぐれも、話し合いをするために来たのだということを忘れないで下さい。」
むっつりと不機嫌そうな二人に、念を押すように軽くうなずき、続いて調停者の役割についての説明を始めた。
「この話し合いでの私達の役割は、お二人が心を開いて話し合えるようにお手伝いをすることで、私達から何かの提案をしたり、アドバイスをしたりすることはありません。それは、お二人の間の揉め事の理由や状況を最も理解されているのはお二人自身ですから、その解決策を考えられるのもお二人だということです。
もちろんお二人とも、他の法律的な手段を選択する権利を持っていることはいうまでもありません。弁護士に相談したいという場合もそれは自由ですので、念のため申し上げておきます」
その後、調停者が必要に応じて当事者と個別に話をするコーカスの説明や、和解ができた後の手続き、調停中にテープレコーダーなどの録音機器を使わないこと、メモを取るのは構わないが終了後には廃棄しなければならないことなどの説明や注意が行われた。その後、いよいよ話し合いが始められた。
同席調停の始まり
険悪な雰囲気で話し合いは始まった。特に、この場に無理やり引っ張り出されたと思っている近藤が、まず調停者の沢口に向かって食って掛かった。
「あなた、最初に二人の間の揉め事って言ったけどね、揉め事なんてないんだよ。相手が一方的に文句を言っているだけなんだよ」
岡崎の表情が瞬時に険しくなるのが見て取れた。調停者の沢口が近藤に向かって、やはり穏やかな口調で話しかけた。
「近藤さん、最初にお願いしましたように、この場に喧嘩をしにきたのではありませんので、出来るだけ穏やかにお話し頂くようお願い致します」
その後も、近藤は時々言葉が荒くなり調停者にやんわりと注意されていた。なかなか険悪な雰囲気は取れず、調停者は細心の注意を払いながら話し合いを進めていった。2人の言葉を相互に通訳するように、調停者を介してのやり取りが続けられた。
「昼は留守だから、泥棒よけに番犬として飼ってるんだ。番犬が鳴かなかったらしょうがないだろ、えー。泥棒が入ったら弁償してくれるのかよ」
やや興奮気味の近藤の言葉を受け、老齢の調停者が穏やかにパラフレージング(言葉の意味を変えずに別の表現に変えること)した。
「犬を飼っているのは盗難などを予防するための手段なので、この点を理解して欲しいとおっしゃっています。岡崎さん如何ですか」
「番犬だといっても、いつも吠えまくっているじゃないですか。1時間も、2時間も吠え続けるんですよ。聞かされるこっちは、たまったもんじゃない」
近藤が喋ろうとするのを制して、調停者が言った。
「飼い犬が長時間鳴き続けるのには、何か理由があるのではないかとおっしゃっているのですね。それで宜しいでしょうか」
このリフレイミング(内容を理解して別の表現に変えること)に岡崎が頷いた。しかし、近藤の攻撃的な舌鋒がすかさず続いた。
「大げさに言うんじゃねえよ。いつも鳴いてるわけじゃねえだろう。時たま吠えるだけだろ」
ここで調停者の沢口がコーカスを開くことを2人に告げ、沢口と近藤が別室に移動した。近藤は何を聞かれるのか怪訝な様子だったが、沢口は、「今の家に住んでどれくらいになるか」とか、「朝は何時ぐらいに仕事に出かけるのか」など、あまり関係のなさそうなことを10分ぐらい聞いただけであった。
岡崎とも同じ時間だけコーカスを行った後、再び同席での話し合いが始められたが、心なしか近藤の喋り方からとげがとれていた。
コーカスを開く理由は様々であるが、今回は、近藤をすこし落ち着かせようとの考えからのようであり、それは成功したようである。沢口が更に話を進めた。
「では、近藤さんにお聞きしたいことがあります。犬の運動についてですが・・・・」
話し合いは延々2時間以上にも及び、最初の険悪な雰囲気がかなり薄れてきた頃に、岡崎がある提案をした。
「犬の鳴く原因のひとつが運動不足ということなら、私が犬を散歩に連れて行きますよ。仕事で疲れて気分転換をしないといけない時もありますから、それも兼ねて犬の散歩を引き受けます。昼の間に私が勝手に犬を連れ出して散歩に連れてゆくことになりますが、近藤さんにはそれを了解頂ければと思います」
思わぬ提案だったのか、近藤はちょっと戸惑いの表情を浮かべながらも、「私の方としては別に構わないけど」と、やや口ごもり気味に言った。
話し合いはそこで終了した。調停者が話し合いの結果を確認し、必要な書類を作成し、サインをして散会となった。
調停後、自宅に戻って
犬が鳴き始めると岡崎は仕事の手を休め、しぶしぶ犬を散歩に連れ出した。あのように言ったものの、仕事が乗っていて散歩どころではない場合もある。しかし、自分で言い出した手前、面倒でもやめるわけには行かなかった。
犬の方も最初は戸惑っていたが、数日するとすっかり慣れ、岡崎がやってくると尻尾を振りその場をぐるぐると回りながら喜びを表現した。岡崎も最初は億劫であったが、いつしか散歩は日課になり、仕事に疲れると毎日30分ほど犬を連れて近所を歩き回った。
不思議なことに、自分で犬を散歩に連れ歩くようになってからは、仕事中に犬が鳴いても以前ほどは気にならなくなっていた。散歩の合間には色々な出来事があり、面白い発見もあった。ある時、たまたま近藤と会った折にそんな話をした。
「散歩の途中にプードルを飼っている家がありましてね、その犬が気に入ったのか、近くまで行くと紐をグイグイ引っ張っていって、家の前で呼ぶように吠えるんですよ。片想いみたいですけどね」
他愛のない話であったが、自分の飼い犬のことでもあり、近藤も面白そうに話を聞いた。それがきっかけで、近藤とは何回か話すようになり、犬もいつしか殆ど鳴かなくなっていた。しかし、岡崎はそれでも楽しそうに隣の犬を連れて散歩に出かけるのだった。
次回は、近隣トラブルセンターが、ない時(ノンフィクション編)
今回は、近隣トラブル解決センターが、ある時(フィクション編)でした。では、現実はどうだったのか。近隣トラブル解決センターが、ない時(ノンフィクション編)は3日後の掲載となります。お楽しみに。