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小林祐三、右サイドで残した記憶。チームプレーヤーの矜持。

小宮良之スポーツライター・小説家
2014年、J1開幕戦の小林祐三(写真:YUTAKA/アフロスポーツ)

 2020年12月、博多。最終節が終わった後、小林祐三(35歳)はマスクを外してコーヒーを口にした。深夜のカフェはその日の終わりを惜しむように騒がしかった。17年にも及ぶプロサッカー選手人生に、彼は別れを告げていた。

―何年か経って、プロ選手としてどのような風景を思い出すのか?

 その質問に、小林は丁寧に答えている。

「どうですかね…プレーではないかもしれません。スタジアムに入るときのバスの中とか、ウォーミングアップの何気ない空気とか、そこで交わされた普通の会話。柏時代は独身で外食が多かったので、試合前にパスタ屋さんでプッタネスカをよく頼んで食べていたな、とか。これから試合があるという緊張感が、自分は好きで、嫌いでもあったから」

 ディテールにこだわった分析は、彼らしかった。

 そのプロサッカー選手人生とは――。

静かな決意

 小林は東京の羽村市で生まれ育った後、中学は埼玉の熊谷市で過ごし、高校は静岡で暮らしている。一貫していたのは、サッカーに夢中だったことだろう。1990年ワールドカップで優勝した西ドイツの選手たちに憧れ、試合のビデオを擦り切れるほどに見たという。5歳の子供だったが、それは彼のサッカーのルーツとなった。

 2004年、静岡学園で注目を浴びていた小林は、複数のJリーグクラブのオファーを受け、柏レイソルに入団した。

「最初は緊張しましたよ。ベンチで見ながら、エメルソン(浦和レッズ)なんかもいましたし。みんなすごい選手だなと思っていました。でも、肌を合わせていると、慣れてくるところもあって」

 小林は言うが、高卒ルーキーでリーグ戦9試合に出場し、2年目は日本代表U―20としてワールドユース(現行のU―20ワールドカップ)に出場しながら、19試合に出た。同世代では、刮目すべき台頭だった。ワールドユースで世界と遭遇し、Jリーグに戻るとプレーがスローに映ったという。

 しかしギアを入れるところで、グロインペインになった。チームは敗北を重ね、ヴァンフォーレ甲府との入れ替え戦ではバレーに6点を叩き込まれる。飛躍を期していたが、J2に降格した。

「(甲府戦)あの時の動画を見返すと、周りは崩れ落ちているんですけど、自分は堂々と言うか、顔を上げているんですよね。よく覚えていないですが、立っていないといけないと思っていました。これは恥ずかしい経験で、必ずJ1に上がるからって」

 小林は振り返る。それは静かな決意だった。

「J2で過ごした2006年はとても大事で。プロ選手としての自分が形成されたのはあるかもしれません。当時は、絶対に1年で上がらないといけない、というチーム状況で。自分のことよりも、チーム、組織のことを第一に考えるようにはなりました。周りのことを考えすぎるようになったかもしれません。結果的に、海外でプレーする選手たちのように突き抜けるきっかけを失わせたのかもしれませんね」

 同じ北京世代の本田圭佑、内田篤人、岡崎慎司、長友佑都などが海外で勇躍する一方、小林は柏をJ1に戻し、Jリーガーとしての素地を固めていった。柏ではディフェンスとして7シーズン在籍。2度、J2に降格したが、どちらも1年で引き上げた。派手さを好まない選手で、キャプテンシーというタイプでもなかったが、冷徹なプレーと振る舞いで、チームを“浄化”し、バランスを保たせていた。

 その存在が欠かせなかったことは、2011年に移籍した横浜F・マリノスでも、6シーズンにわたって絶対的な右サイドバックのレギュラーとしてプレーした点からも分かるだろう。マリノスは常に上位をキープ。2013年には最終節までJリーグ優勝を争いながら逃すことになったが、天皇杯優勝で留飲を下げ、小林自身も優秀選手に選出された。

一貫したチームとの向き合い方

 小林はどこかのタイミングで、代表に選出されてもおかしくはなかった。365試合というJ1通算出場数は、歴代47位。トップ50のJリーガーで、代表キャップがないのは、他に3人だけ。海外組が全盛に入った時代だったが…。

「表現は難しいですが、バカにならないと、無理をしないと、自分の時代は海外へいけなかったです。自分はその意味で、地に足をつけてやるタイプだったというか。でも、そうやって組織を重んじる自分がいたからこそ、Jリーグでやってこられたのも事実なんですよね」

 小林は自らをそう分析した。

 徹底したチームプレーヤーだったと言えるだろう。かと言って、「チームを重んじる」とメディアに向けて主張して目立つ真似もせず、むしろ”体温が低く”映った。派閥を作らず、誰にも与せず、余ることなく、足りないこともない。一人のプロ選手として弁えた姿勢は、チーム内で常に必要とされた。

 2017年にサガン鳥栖に移籍してからは、ベテラン選手として若い選手の手本になった。喧騒と混乱に突っ込んでいったクラブで、“重石”になっていた。

 2018年シーズン終盤戦、降格当確と言われた時も、最後の5試合を3勝2分けと無敗で乗り切って、どうにか残留させている。破綻しそうなったチームを、右サイドを安定させることで救った。最後のシーズンも、「柄ではない」と固辞しながら、キャプテンを任されると、不安定なチームマネジメントの中で人知れず折り合いをつけていた。

 そして2020年末、自ら粛々とプロサッカー選手の幕を閉じている。

自分で開けた扉は自分で

「まだやれるのに、なんで続けないの、と周りに言ってもらえるのは正直、嬉しかったですね」

 小林は言う。2021年からは関東1部リーグのCriacao Shinjukuでプレーするが、あくまで社員として働く形だ。

「(しがみつくことで)今まで16年間やって来たことを薄めるようなことはしたくない、というのはありましたね。いろんな選択があると思うんですけど、僕にとっては、ディビジョンを落として、どうにかサッカーをするとかって、サッカー選手を続けるためにサッカーをするように思えて、本末転倒かなって。サッカーするのにプロ選手であり続ける必要はあるのかなって考えたんです。Jリーグの扉は自分で開けたので、出ていくのも自分の足で、と思いました」

 最後に訊いた。

―17年、プロサッカー選手として生きてきて、一番、影響を受けた人は?

 小林はしばし考えこんでからこう洩らした。

「思い浮かばないです。誰っていう一人を決められない。みんなから少しずつ等しく、何らかの影響を受けていて。それが自分という選手だったと思います。専門誌のマイベストイレブンも、『申し訳ないけど白紙で』って出しちゃうんで、あれ、たぶん、困りますよね。でも、本当にそういうのを決められないんです」

 誰とも分け隔てなく接し、チームに徹した男の矜持だ。

スポーツライター・小説家

1972年、横浜生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。語学力を駆使して五輪、W杯を現地取材後、06年に帰国。競技者と心を通わすインタビューに定評がある。著書は20冊以上で『導かれし者』(角川文庫)『アンチ・ドロップアウト』(集英社)。『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家デビューし、2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を刊行。他にTBS『情熱大陸』テレビ東京『フットブレイン』TOKYO FM『Athelete Beat』『クロノス』NHK『スポーツ大陸』『サンデースポーツ』で特集企画、出演。「JFA100周年感謝表彰」を受賞。

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