ブラタモリ特番が残した数々の気づき 羊羹(ようかん)はなぜ羊(ひつじ)の文字?
宿泊経験500泊。関東圏の穴場ずらし旅の愛好家、とらべるじゃーな!です。
3夜連続の特番で復活した「ブラタモリ」。異例のお城の中に作られた宿場町(淀宿)、京を守る要害となった神社(石清水八幡宮)など、今回も数多くの驚きを与えてくれました。
さらに、扱われた内容は様々なことを示唆してくれます。例えば、豊臣秀吉が作った堤防が競馬場の形を変え、あの武豊騎手の活躍につながっていることも分かりました。
ブラタモリが解明 あの武豊騎手の活躍は「豊臣秀吉」が背後にあった? 京都競馬場の坂の秘密
ブラタモリが教える羊羹(ようかん)の歴史
ブラタモリ特番(東海道五十七次)で、初日に訪ねたのが伏見宿の「駿河屋」。
写真は8年前の伏見編で訪ねた駿河屋(総本家駿河屋 伏見本舗)です。伏見桃山駅に近く、町並みに街道の雰囲気があります。
タモリさんが今回訪ねたのは、分家にあたる「伏見駿河屋 本店」。
上の地図では、東海道五十七次(京街道)が曲がる、電気事業発祥の地の石碑のすぐそばにあります。街道を通じて羊羹(ようかん)を広めたお店です。
タモリさんがまず試食したのは、豊臣秀吉に献上された、安土桃山時代の羊羹。
古い羊羹は、あんに小麦粉などを加えて蒸す製法でした。初めの頃は、手でこねて作っていたのではないかという説もあります。
日持ちしない欠点がありましたが、今の羊羹よりもふわっとした舌触りで、素朴な味わいがあります。秀吉が賞賛したのもうなずけます。
江戸時代になり、いまの羊羹が誕生
秀吉の晩年にあたる1598年、駿河屋では今の練り羊羹の原点である、材料を炊き上げる(煮詰める)製法が開発されます。
しかしこの時点では、まだ現在の羊羹とは異なるものでした。
伏見城で死去した秀吉の存命中には間に合いませんでしたが、江戸時代にあたる1658年、駿河屋は、炊き上げる製法に新たに誕生した「寒天」を加える着想に至ります。
ようやく現在のつややかでほどよく固い、ゼリーのような食感を持つ、日持ちする練り羊羹が誕生しました。
タモリさんも、現在の練り羊羹の元祖を試食しています。
新鮮な食感で、日持ちしていつまでもおいしい練り羊羹は、京街道(東海道五十七次)を通じて、全国に広がりました。
とらやの「夜の夢」も江戸時代(記録が残るのは1819年)から続く羊羹です。
羊羹(ようかん)はなぜ「羊」?
さて、ブラタモリでは触れられませんでしたが、練り羊羹、蒸し羊羹と、羊羹の歴史をさかのぼると、気になるのがなぜ「羊(ひつじ)」の文字を使うのかではないでしょうか?
これは羊羹が、鎌倉から室町時代にかけ中国から伝わった、羊のスープである「羊羹」(羊の羹・あつもの)が原点であることによります。お寺では、その代用として小豆を使ったスープが作られ、煮凝りがお菓子の「羊羹」の原点となったのです。
ブラタモリ東海道五七次(京街道)編のロケ地は、下にまとめてあります。
【ブラタモリ特番 東海道五十七次の全ロケ地】帰ってきたタモリさん、京街道を歩く#263(とらべるじゃーな!)
8年前のブラタモリ伏見編では、ようかんや伏見の町を詳しく紹介しています。
【ブラタモリ京都伏見・全ロケ地】タモリさんが伏見城と秀吉の痕跡を探る #37(とらべるじゃーな!)