ブラタモリ特番 意外な「埋まり秀吉」は枚方宿にも大阪城にもあった 地中深くからその偉業を訴える
宿泊経験500泊。関東圏の穴場ずらし旅の愛好家、とらべるじゃーな!です。
特番形式で復活したブラタモリは、「行けばわかるさ 徳川の思惑」をテーマに、3夜連続で東海道五十七次(京街道)を訪ね、大きな反響を呼びました。
徳川がテーマでしたが、随所に見え隠れしたのが豊臣秀吉の影。今回は「埋められた豊臣秀吉の遺構」を取り上げてみます。
京都競馬場は豊臣秀吉の堤防を埋めて作られた
淀宿があった淀駅周辺を散策したタモリさんが訪ねたのが、京都競馬場。
京都競馬場は、コース内に池があることでも知られています。現在の京都市の南部は、京都盆地では低い場所にあたり、複数の川が流れ込む、池や湿地帯であった名残りです。
京都競馬場の背後には、現在も宇治川が流れています。
ブラタモリが解明したのは、京都競馬場の第3コーナー(模式図では左下)は、宇治川の堤防を埋めるように作られたのではないかという新事実。
実際に京都競馬場の第3コーナーには登り下りがあり、それを得意とする武豊騎手は、キタサンブラック(北島三郎さん所有)などをGⅠ勝利に導いています。
ブラタモリが解明 あの武豊騎手の活躍は「豊臣秀吉」が背後にあった? 京都競馬場の坂の秘密
この堤防は、豊臣秀吉が治水のために作ったもの。時が下り、堤防は埋められてしまったのです。
秀吉が作った堤防は複数ありますが、地図左に淀城(現在の淀駅のすぐ西)があり、京都競馬場の3コーナーの堤は、大池堤なのかも知れません。
発掘された秀吉の堤防からは、実用面とは別に、装飾が施されたものも出土しており、秀吉の権勢を誇示しました。
これは昭和時代、政治家が地方に新幹線を引っ張ってきたことに近いと思います。
「文禄堤(ぶんろくつつみ)」という堤防も埋められていた
タモリさんが、守口宿で訪ねたのが、秀吉が枚方(ひらかた)から守口にかけて作った文禄堤(ぶんろくつつみ)。
守口宿では、現在でもその姿が残されています。では、枚方宿の文禄堤はどこへ行ってしまったのでしょうか?
ブラタモリでは紹介されませんでしたが、枚方宿にも「堤町」の地名が見られます。
文禄堤は、枚方市駅前再開発などを機に、地下2mの付近から見つかっていたのです。
枚方宿鍵屋資料館の表示を見ると、現在の地表面の下にはガス管や水道管などがあり、2m地下に文禄堤が埋もれていることが分かります。
ブラタモリ東海道五七次(京街道)編のロケ地は、下にまとめてあります。
【ブラタモリ特番 東海道五十七次の全ロケ地】帰ってきたタモリさん、京街道を歩く#263(とらべるじゃーな!)
豊臣秀吉の大坂城も埋められていた
大阪城は、「太閤さんのお城」として親しまれ、豊臣秀吉の城と考えられていた時期がありました。
しかし現在残るのは、実は徳川(江戸幕府)の大阪城(大坂城)です。
写真の井戸のような場所から、豊臣大坂城の遺構に足を踏み入れることができます(一般非公開)。
このことは、ブラタモリでも紹介されています。
【ブラタモリ大阪城と真田丸・全ロケ地】豊臣・徳川の最後の戦いを探る#54(とらべるじゃーな!)
秀吉が遺した数々の遺産は、堤防だけではなく、大坂城までも埋められていたのです。
しかし、秀吉の堤防は1級河川に本格的治水工事を施す現在の土木技術の原点とされ、「三国無双の城」(日本、中国、インドの3つの国を通じて並ぶものがないという例え)とも呼ばれた豊臣大坂城も、のちの城づくりに大きな影響を与えたはずです。
なお、秀吉が京都を守るために建造した御土居(おどい)と呼ばれる盛り土(安土桃山時代、全長23キロ)は、京都の北部に比較的多く残存し、現在でも見学することができます。
【ブラタモリ南禅寺・御土居・新京極】全ロケ地をまとめ|タモリさん全国へ #特番(2015.1)(とらべるじゃーな!)
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