「Amazonプライム解約運動」で徴兵制を考える―三浦瑠麗氏の主張は適切か?
インターネット通販大手アマゾンのCMが波紋を呼んでいる。動画視聴などの有料会員向けサービス「Amazonプライム」のCMに国際政治学者の三浦瑠麗氏が出演したことから、ツイッター上で「#Amazonプライム解約運動」のハッシュタグをつけた投稿が急増。17日にはツイッターのトレンドの1位となった。三浦氏がこれほどまでに反発を買っている理由は、同氏が日本での徴兵制導入を主張していることだ。
◯三浦氏の徴兵制必要論に反発
「#Amazonプライム解約運動」とのハッシュタグ(検索目印)をつけたツイッター上での投稿を見ると、その多くに三浦氏がテレビ番組や新聞等で徴兵制導入を主張した際の画像が貼り付けられ、「解約しました」との報告もいくつも投稿されている。三浦氏は、2014年に文春オンラインに"三浦瑠麗「日本に平和のための徴兵制を」豊かな民主国家を好戦的にしないために、徴兵制を提案する"との論考を寄稿。
https://bunshun.jp/articles/-/234
また、昨年にも朝日新聞が運営するウェブサイト「論座」で、"三浦瑠麗対談:私が徴兵制が再び必要だと言う理由"として、同志社大学特別客員教授の阿川尚之氏との対談が掲載された。
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019070900003.html
これらの論考・対談の中で、三浦氏が日本において徴兵制が必要だとしている主たる理由は、以下の部分に集約されている。
つまり、徴兵制を導入し、実際に戦争を始めれば有権者たる市民も戦争に駆り出されるという状況になれば、市民は戦争に反対するようになる、というものだ。ただ、三浦氏の主張は、端的に言えば非常に雑な机上の空論である。
◯徴兵制あっても戦争を繰り返すイスラエル
まず、徴兵制があれば戦争を回避できるのか。例えば、イスラエルは徴兵制であり、18歳以上であれば男性は3年、女性も2年の兵役につくことが義務とされ、拒否すれば刑罰の対象となる。だが、徴兵制がイスラエルの戦争を抑止しているかは大いに疑問だ。1948年の建国以来、イスラエルは4度にわたる中東戦争など、実際に戦争を繰り返している。これらには、周辺国から宣戦布告されたものもあるが、例えば、2006年にはレバノンに軍事侵攻を行うなど、イスラエルは積極的に戦争を行っていると言えるだろう。
パレスチナ自治区ガザに対しても、イスラエルは2008年末から2009年1月の侵攻、2012年11月の大空爆、2014年夏の大規模侵攻など、民間人を巻き添えにした軍事行動を繰り返している。このことからも、徴兵制=戦争抑止だと単純に言い切れないことは明らかだ。
◯韓国は徴兵制があるから戦争しない?
三浦氏は「徴兵制が戦争を抑止する」という主張の根拠として、韓国を例にあげるが、大雑把すぎる分析だろう。韓国の首都ソウルは38度線から近く、北朝鮮との戦争となれば、例え核攻撃が行われなくとも、砲撃や短距離ミサイルでの被害が甚大となるのは専門家達の間で意見が一致していることだ。戦争開始初日だけでも6万5000人もの犠牲者が出るだろうとも分析されている(関連情報)。
つまり、徴兵制云々以前に、戦争の人的コストが大きすぎるということが、韓国における対北朝鮮の戦争を回避する大きな要因なのである。また、韓国と北朝鮮の人々が同じ民族、同胞であるということも、人々が戦争回避を求める要因であろう。核問題の交渉の行き詰まりで、その支持が失われているとは言え、朝鮮戦争以降、武力によらない南北統一が、韓国と北朝鮮両政府の間で模索され続けてきたことも、戦争回避の大きな要因だ。
◯識者としてもてはやすメディアの愚
徴兵制は、憲法18条で禁止された「意に反する苦役」にあたるとされ、憲法違反であるとの見方が専門家達の間で支配的だ。安倍晋三首相ですら、2015年7月30日の参院特別委員会で「明確な憲法違反」だとの見解を示している。日本が戦争を行うことを回避するため、という目的であれば、既に憲法第9条があるし、時事通信が今年5月に行った世論調査でも約7割が「9条維持」を求めるなど、国際社会の変化の中にあっても、平和憲法は日本の有権者に根付いている。
戦史/紛争史研究家の山崎雅弘氏は、三浦氏の徴兵制必要論に対し、「今までの常識とは違う観点に光を当てるのでなく、ただ目立つために『突拍子もないことを言う』という手法は、言論人として一番ダメな態度だと思います」と批判しているが、筆者も全く同感だ。そもそも、「国際政治学者」と名乗るには、あまりに稚拙な主張を繰り返す三浦氏を識者としてもてはやすメディアこそが愚かなのであって、今回の騒動を契機にアマゾンのみならずメディア関係者らも三浦氏の起用について、それが果たして言論のあり方として望ましいのか、よく考えるべきだろう。
(了)