パリを魅了する 日本のKIMONO
昔話をするのもお恥ずかしいが、私が暮らし始めた頃、パリで「キモノ」といえば柔道着のことだと思う人が多いのに驚いた。柔道がすでにフランスに深く浸透していたのに対して、当時はまだ日本の和服の存在を知らない人が少なくなかったのだ。それを思うと、現在パリで開催中の「KIMONO」展が主催者の予想をはるかに上回り、通常の展覧会の倍以上の入場者数を記録しているのには隔世の感がある。
場所はフランス国立東洋美術博物館、通称ギメ美術館。展示の核になっているのは松坂屋コレクションの小袖で、日本染織史のいわば絶頂期の名品約150点が海を渡ってやってきた。
会場に入るとまず、江戸時代の大店「松坂屋」を描いた絵が大伸ばしになって壁の両側に巡らされている。
「のれんをくぐり、カタログを見て生地を選び、染め、絞り、刺繍など、お店でどのように注文するのかをまず紹介したいと意図しました。きものは一点一点が固有のお誂え。このことがまず独特ですから」
館長のソフィー・マカリウさんが語るように、来場者はまるで店のお客になったような気分に誘われるイントロだ。
ついで当時の風俗が描かれた屏風や浮世絵のゾーンを経て、絢爛豪華な小袖の名品が絵巻物のように展開する。
と、ここまでなら東京、京都の国立博物館の染織室を追体験しているようなもの。いや、もっとも重要文化財レベルの染織品がこれほどたくさんパリで一堂に展覧されること自体途方もないことなのだが、今回の展示はそこで終わりではない。きものが西洋にどのように受け容れられ、モードの世界にいかに影響を与えてきたのか。このもう一つの大きなテーマによって、単に懐古趣味だけに終わらない「KIMONO」展になっている。
フランス人のアーティストが製作したというしだれ桜をイメージさせるデコレーションが揺れる空間では、コシノ・ジュンコ、高田賢三、三宅一生、山本耀司らのkimonoが並ぶ。
「きものがいかに日本の現代のクリエーターたちの発想の源になっているのか、彼らの作品を紹介するというアイディアも、展覧会の企画の初めからありました。彼らは別の解釈できものというものを見ている」
とした上で、マカリウ館長は続ける。
「西洋では、きものははじめにエキゾチックなものとして受け入れられました。本来の機能、着方とは違って、室内でバスローブやガウンのようにリラックスしてはおる形で。そして20世紀になると、ヨーロッパのモードを根底から革新するものとして取り入れられました。西洋の衣装からコルセットを消滅させるというファッション革命を起こしたデザイナー、ポール・ポワレ、そして同時代のマダム・ビオネの作品にそれがよく表れています」
たしかに彼らのデザインは、それまであたりまえだった極端にウエストを絞る発想から女性の身体を解放したもので、そこにきものの影響が色濃いのだと館長は言う。
「帯は取り入れなかった」
この一言もさらに意味深く、示唆に富んでいる。
私たち日本人にとって、きものにはどうしても窮屈なイメージがあるのに、西洋では逆に窮屈さ(=コルセット)を取り払う役割をしたというのはなんとも面白い。
きものはさらに現代のクリエーターたちにも啓示を与える。イブサンローラン、ジャン・ガリアーノ、ジャン=ポール・ゴルティエなど、オートクチュールの巨匠たちの作品が並んだ会場は、ファッションショーさながら。そしてショーのトリを飾る花嫁のドレスのようなフランク・ソルビエ作品をマカリウ館長はこう表現する。
「私にとって、この蝶のようなキモノは非常に日本的に映ります。ポエティックでしかも“軽み”というエスプリがある。移ろいやすく、時空を超越したような軽さ。江戸期の“浮世”という感覚と符合するものだと思うのです」
なるほど、襟元をぴっちりと合わせ、帯を結んで着るものという既成概念なしに受け入れられたきものは、大きな羽を広げて軽やかに羽ばたけることを象徴しているようにも見える。
マカリウ館長の斬新な観点からの話にどんどん引き込まれていた私は、長患いの病人が突然目の前に現れた名医にすがるような気持ちで、こんな質問をしていた。
「きものに未来はあるのでしょうか?」
というのも、私自身が日本できものに携わっていた時、その世界が衰退の一途を辿るのを肌で感じていた。きもの離れはどんどん進み、大小の問屋が次々に廃業し、昔ながらの手仕事の現場ではほとんど例外なく後継者問題を抱えているのを見てきた。
(いったいどうしたらこの美しい染織文化を存続させられるのだろう)
いつも答えのない自問を抱えているようで、悲しい無力さを感じていたものだった。そんな質問の背景は伝えず、ただ率直にきものの将来は? と問いかけのだが、開口一番、彼女はこういった。
「私はそれを確信しています」
そして、滔々と次のように語った。
「きものというのは素晴らしい形式です。完璧な配置です。一見するととても単純見えますが、これはアーキテクチャー。着るものという概念を超えたものだと思います。松坂屋のコレクションはいずれも絵画を見ているような驚きがある。一枚のきものの前に立てば、まるで池大雅の絵を見てるような気持ちになります。裾から始まって、その風景の中を逍遥するよう引き込まれてゆく。小さな池があり、葦の間には小舟が浮かんでいる。小径を進めば橋がかかっていて、さらにそこから少しずつ上へ上へと山を登ってゆく。頂は雪に覆われ、かなたの山に目をやれば、百年樹齢の見事な松が枝を広げ、隠者の庵があり…。つまり私たちは風景のかなにいるのです。そうかと思えば、和歌が刺繍され、源氏物語のシーンが裾にあしらわれているものもあるというように、途方もない文化的なスケールを感じますし、装飾の創意は絢爛たるものです」
フランスの国立博物館の館長であるからには、大変な碩学で一流の審美眼の持ち主であることは言うまでもない。その人物がこれほどまでにきものを熱く語ることに私はしばし圧倒された。知識だけで語っているのではなく、そこに心がこもっているのは明白で、現に彼女自身、きものを3着持っていて、展覧会のオープニングでは、お気に入りの絞りのきものを着たという。
「友禅染も素晴らしいですが、個人的には絞りに目がないのです。(鹿の子絞りなどは)高度にソフィスティケートされた驚くべき技術です」
お話をうかがったこの日は、前外務大臣のローラン・ファビウス氏も来場したそうで、フランスのメディアでの取り上げ方も手厚い。
「フランス人、パリジャンは日本文化が大好きです。それは一過性のものでなく、本物のパッションと言えるものです。この展覧会は彼らに喜びを与えるもので、見終わった後は美に目をくらまされたような思いがする。美に酔うという感覚でしょうか」
館長の言葉、そして小袖を矯めつ眇めつスマホで捉えようとしている来場者の姿には、私たち日本人がかえって驚かされる熱いものを感じる。私が日本で抱えていた答えのない問いに、この先ひょっとしたら意外なところから答えがもたらされるかもしれない。そんな期待を抱きたくなる展覧会なのだ。
ちなみに会期は5月22日までだが、4月4日に展示替えがある。名作のすべてを目に焼き付けるには、少なくとも2回は足を運ぶ必要がありそうだ。