映画『ケダモノ』(Animale)。フェミニズム作品はなぜマンネリ化するのか?
良作だが面白くない、そんな作品がまた一つ。
闘牛という男だらけの場に女一人、そんな彼女を描く社会的な意義も、監督の良心もわかる。
しかし、その設定で何が起こるのかというのもまた、わかってしまうのだ。
■女性差別を描くべき背景
男女平等は一刻も早く実現されなければならない。
伝統的なマチスモ(マッチョイズム=男性優位主義)があるスペインは「平等省」という専門の省を作って、その実現に本腰を入れている。
差別を可視化するために「マチスモの暴力」(Violencia machista)という定義が作られてから20年経つ。差別意識が背景にある女性への男性による暴力を可視化しようという試みだ。2024年にそのマチスモの暴力によってスペインで殺された女性は、47人に上った――。
↑舞台はフランス南部。フランスの闘牛はスペインのそれと違って牛を殺さない
映画は社会の鏡であり、主張の場でもある。
こういう解決に緊急を要する社会の中で、男女差別とその解消をテーマにする作品が生まれるのは、当然のこと。
映画『ケダモノ』のように闘牛界の紅一点である主人公が、男社会でどんな仕打ちを受けるかを描くことも、差別解消という意味では意義がある。
が、面白くないのだ。面白くないと映画=エンターテインメントではない。
■明確過ぎる主張が物語を陳腐化
なぜか?
フェミニズム作品にはパターンがある。パターンがあるのでマンネリ化しやすい。
作品の言いたいこと=主張は次の3つに集約される。
①男による差別
②男に復讐する
③女は強い
主人公の成長物語として、通常は①→②→③のように展開する。このうちの1つないし2つがクローズアップされることもある。
例えば『ケダモノ』の設定であれば、①闘牛という男社会の中、主人公が男によって被害を受ける、②加害者を告訴するも、密室での事件で証拠不十分で敗訴、③闘牛場での事故を装っての殺害を決意する……なんて展開が考えられる(②と③は筆者のでっち上げです。実際の物語はこうなりません!)。
目的が男女差別の解消なのだから、主張としては、これ以上のバリエーションはない。主張にバリエーションがないと、その主張によって条件付けされる物語もバリエーションを失う。しかも、主人公は男性による差別の被害者女性の一択……。
これが政治なら「一貫した主張」で済むのだが、映画で予測可能な物語ほど興醒めなものはない。
■打開策はファンタジーにある
映画『ケダモノ』もこのマンネリ化を避けられなかった。
女性監督で映画祭で上映された、ということも予測可能にした。
男女差別についての意識が高いのは女性であるし、映画祭では意識が高い系の作品が好まれやすい。この作品を見たシッチェス映画祭にも、サン・セバスティアン映画祭にも、女性監督作品のためだけのセクションが数年前から創設されている。
この作品の原題は『Animale』なのだが、筆者が意訳した。原題の直訳は「動物」だが、“闘牛は動物だけど、男たちは闘牛以下のケダモノ”という、作品から受ける印象を込めたつもりだ。
「映画『コサージュ』。ある主張に実在の人物を当てはめることの難しさ」にも書いたが、面白いフェミニズム作品を作るのに最も適しているのが、ファンタジーだと思う。現実社会の枠に囚われず、モンスターや幽霊、「もし……だったら」の空想の世界に男女差別を語らせることで話が広がるし、想像力も刺激できる。
2024年のシッチェス映画祭で見た作品でも、映画『ナイトビッチ』や『The Substance』、昨年の同映画祭で見た『哀れなるものたち』はまず面白く、次に考えさせられた。
考えさせられるが既視感があるものは、日々のニュースだけで十分だ。
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※写真提供はシッチェス国際ファンタスティック映画祭